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BBCドキュメンタリー「神風」  

平成7年4月出撃50周年の節目に当たり鹿屋市主催の特攻戦没者慰霊祭に参列した神雷部隊戦友会にイギリス国営放送BBCが同行取材をし戦後50年特集番組「カミカゼ」を制作、10月に英国内で放送されたものですが日本では未放送。
そのDVDを中根中尉の御遺族のM様が送って下さって観ることができました。
神雷部隊の関係者の方(士官、佐官)の証言や米軍兵士の証言で構成されてました。
日本側で証言してらしたのは湯野川大尉、林大尉、細川中尉、片岡中尉、中島中佐、あとは陸軍の小林公二少佐、三木忠直さん(桜花の設計者)、大田少尉(桜花の提案者)の息子さんでした。
湯野川大尉は当時も今も靖国神社が自分達にとってどういうものであるかという事を語っておられましたが、この方あまり自分の事は話されないなと思う。
兵学校同期の林大尉は積極的に正直に話されてて突然歌を歌い出したり(お上手です)するのですが全然タイプの違う二人.
三木さんは大田少尉から桜花について聞かされた時「そんな兵器は作れない」と拒否したそうですが「自分が乗って行きますから」と言われてと話されてましたが大田少尉一人乗って行けば一回こっきりで終わりなわけないじゃんと。
中島中佐が証言者の一人で出ていたのにはちょっと驚いた。
この人若い頃の写真でしか見たことなかったし、国内で放映されるドキュメンタリーに出てるのも見たことなかったのでどんな人なんだろうと思ってたけど・・・正直なところ良く言う人があまりいない理由がこのドキュメンタリーで解ったかも。
国内向けのドキュメンタリーでは出せないわこの人、当時の姿を知ってる人は相変わらずだなという印象なのかもしれないけど、そうでない遺族の方々の神経確実に逆撫でする人だわと。
御本人も海外の番組だから話を受けたのだろうけど。
他の方々の証言は生き残ったことでそれぞれ背負って生きてきたものの重さとか亡くなった人達への思いとか「自分が生きてる限り亡くなった戦友達も共に生き続けることができるから長生きしたい」というようなことを林大尉も話されてましたがそうやって生き続ける覚悟みたいなものを感じたりしたのですが、中島中佐に感じたのはこの人能天気なテンションで何喋ってんだろと。
当時の特攻隊員の心情なんて一番理解してそうにない人が心情について語っている状況・・・変。
部下もこの人には表面的なものしか見せなかったのだと思いますが、それにしても理解しなさすぎだろと思う。
自分は禅というものを少しやっていたからと話していて、そのせいか独特な死生観をお持ちの方のようで・・・。
こういう考え方は個人の技量が全てとも言える戦闘機搭乗員をやってる間はいいんだろうけれど、ある意味怖いもん知らずで。
禅だか何だか知らんけど自分の死生観押し付けて、喜び勇んで特攻に行ったなんて思われて後々私が話すのが本当の特攻隊員の姿ですなんて言われたら、あの頃自分が死んでいくことの意味、その日がくるまで生きることの意味を日々考え続けていた人の心情はどうなんの?私だったらあんたにだけは絶対に語って欲しくないわと思う。
もう少し人の心理解する努力しようよと思いました。
細川中尉は「動物というものは死というものを嫌うし死を前にしたら逃げますねただ逃げてはいられない精神的な責任とか道義とかいうものがあったときに自分の命を捧げる」「昭和19年12月、私は中尉に進級して桜花分隊士になったとき、『絶対死ぬ』と思わされたがそれが八ヶ月後の終戦まで続いた。処刑を宣告された死刑囚がずっと死を待ち続けるような心境だった」とおっしゃってました。
細川中尉は予備学生士官なので兵学校出の士官や下士官の方達も同じ心境だという決めつけはできませんがそういう思いの人もいたのだということ。
中島中佐は慰霊祭にも一度も出なかったというし・・・それで語るか?彼等の事を。
いろんな人の手記に出てくる人ではありますが、上手く言えないんだけど、人間として重大な欠陥がある人のような気がします。
人間生きてりゃ一人や二人はこの人、人を不快にさせる天才やなっていう人間に出会う事はありますが…私にとってはこの方がその一人かも。

米兵の人達も当時の気持ちなんかを正直に話されてて、本当に特攻を恐れていたのだなと。
余裕で自分達の勝利を確信していたのに、一機の戦闘機が突入してきてそれが偶然ではなく意図されたものであったと知ったときに彼等は恐怖のどん底に突き落された。
そこからは毎日が恐怖との闘い、戦闘機に待ち伏せさせてもすり抜けた特攻機が、対空砲火を撃ってもすり抜けた特攻機が・・・当時の映像を見る度に胃が痛くなりましたが弾幕の間から低空飛行でただ真っ直ぐに自分達に向かってくる戦闘機・・・怖かっただろうと思う。
戦後PTSDを発症した米兵もいたそうですが、あれだけの恐怖にさらされてたらPTSDも発症するでしょう。
それだけの恐怖を自分達に与える特攻隊員を憎んでも余りあるという感情は理解できなくもないけど証言者の一人が話し出した内容は人としてどうよというものでした。
特攻機に突入された艦の中で後日その米兵は特攻隊員の片足の膝から下を見つけたそうです、その骨でアクセサリーを作ってもらったと話していました。
成る程、go to hell って言葉はこういう時にこういう人に向かって使うのね・・・。
この人が隠しておくことができたはずの事を正直に話してくれたことを評価しないといけないのかもしれませんが聞かされた側は何とも言えない不快な気分に・・・。
戦争だったのだから罪悪感は感じないけど悲しい気持ちにはなると話してたけどここまでの事をして罪悪感を感じない時点でもう人間じゃないのではないかと思った。
人が越えてはいけない一線を越えた先が戦争という行為ならばもう何をしても罪悪感なんてないのかもしれない。

以前「TOKKO」という映画のDVDを見た時にも米兵が「自分達は生きる為に戦ってるのに彼等は死ぬ為に突っ込んでくる」と話してましたが、根本的な部分ではやっぱり理解できないんだろうなと思う。
死んで花実が咲くものかと言ってた米兵もいましたがそんなことは百も承知だしそれでもそうするしかない事もあるのよと思う。
吉田松陰の名言にもありますが「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」いうものがあの頃の日本人にはあったのだということを理解しろと言っても彼等には理解できないんだろうと思う。
アメリカみたいな大国からしたら小国小突き回して虐めたってすぐに泣いて言う事聞きよるわくらいに思ってたに違いないだろうけどどんな人間にも意地や誇りはあるのでね。
教育やお国柄もあるんだろうけど。
相変わらず小国を小突き回すのが好きみたいですけど同じ轍は踏むなよアメリカ(ちょっと上から目線で御忠告)。

当時の日本側、アメリカ側の証言を同時に知る事ができて勉強になりましたが、気になったのは日本側の下士官の方達の証言がなかったこと。
士官、佐官だけで部隊が成り立っていたわけではなくむしろ大半が下士官の方達で実際出撃したのも彼等。
証言していた士官で出撃したのは片岡良吉中尉(予備学14期?)だけですが、片岡中尉は元山空で編成された特攻隊の方なので。
下士官の方達の中には出撃して未帰還の方もたくさんいたけれど帰還した方達もいるのでその方達に聞いた方がもっと心情や核心に触れることができたのではないかと思わないではなかったけど、今から23年前だとまだ口が重かったりしたんだろうか?
戦友会で話し合って士官の方達が代表でということだったのでしょうか。
番組上時間の都合もあるから仕方ないのかもしれませんが。

桜花を考案した大田正一少尉の息子さんも最後に少し出ていましたが、大田少尉も戦後戸籍もなく偽名で生きていくほかなかったようです。
最期は癌を患って亡くなったそうですが、その時に初めて泣きながら息子さんに語ったそうです、「わしのせいで二十歳にも満たない若者達をたくさん死なせてしまった」と。
息子さんは「戦争だったのだから個人的な責任とかそういう捉え方はしなくていいんじゃないか」と慰めることしかできなかったそうですが、実際は子煩悩だった父の別の顔みたいなものにショックを受けて息子さん自身お父さんの死後モヤモヤしたものを抱え生きることになったようです(数年前にお父さんの過去を追うみたいなドキュメンタリーをNHKでやってました)。
加害者みたいに言う人もいるけど私はこの大田少尉もあの当時国の事を考えて考案した物がたまたま実用化されて上手い具合に軍に利用されたのだと思う。
回天を考案した黒木大尉や仁科中尉の遺族も戦後「あんたの息子があんなもの作ったからうちの息子が死ぬことになったんだ」と同じ遺族の人から言われたそうですが、大田少尉や黒木大尉、仁科中尉が考えなくても別の人が出てきてその人の国を思う気持ちを軍は利用して特攻兵器を作ったと思うのです。
上層部では特攻というものを着々と進めていて後は若者の国を思う熱意があれば完璧くらいには思っていただろうと思う、自分達が言い出しっぺになるわけにはいかないから。
元々、必死の作戦は御法度の海軍なのに若い士官が話を持ってきても「必死の作戦はダメ」と一喝すればいいだけのこと、必死に食らいついてきても上官の言う事は絶対で蹴散らしてしまえばいいのだ。
それを若い者の国を思う気持ちに絆されてと言いつつ腹の中ではよしよし上手い具合に引っ掛かったと舌をだしてるのが上層部・・・年長者って若者を教え導くものだと思ってたんですが。

林大尉の証言は去年観た映画とは違う気がしました。
亡くなる20年も前なので当然若いんだけれど時には声を詰まらせたりする姿もあって、この時点では亡くなった人達はまだ林大尉の中で林大尉と共に生きているという感じがしました。
去年映画だけを観た時には思わなかったんですが、今回見比べてみると映画の方はもう想い出語りになっちゃってたような気がします。
ドキュメンタリーでは73歳、映画では84歳くらい。
2000年頃から数年間林大尉と交流のあった方のお話だと2006年に映画の撮影が始まった時にはもう認知症を発症なさっていたとのことで自分が交流していた頃とは随分変わってしまわれていたと。
映画の中の矛盾した言葉なんかも知った今なら、そうだったのかと納得できるけれど、知らない間はその矛盾に完全に振り回されることになりました。
確かにいくつか???と思う所があったりしたのですが(集合写真で自分がどこにいるか判らないとか、手記には戦後自殺も考えたと書いてありそれについてインタビュアーが聞いたら自殺なんて考えたこともないという発言とか)。
それをあの時映画館で観ていた人はどうだったんだろうと、矛盾に疑問は感じなかったのかなとかいろいろ考えた。
私は今回映画以外のドキュメンタリーを観たり、映画以外の事から情報を得て、ああそうかとようやく腑に落ちたわという状態に落ち着きましたが、知らない人は何だかよく解らんドキュメンタリー映画だったなと思ったままなのではないかと。
映画のサブタイトルは「特攻を命じた兵士の遺言」でしたが、果たして本当に林大尉が遺したかった遺言なんだろうかなと。
以前の林大尉を知ってる人や亡くなった隊員の遺族に戸惑いと複雑な感情を残しただけだったのではないかと。
人と人との出会いにはタイミングがあるから映画の監督と林大尉の出会いはあの時で映画にするにはギリギリあの時期しかなかったんだろうけど、もう何年か前に撮影が始まってたらもっと違った作品になってたのかなと思いました。
撮ってる側が矛盾に気付かなかったというのなら、ああそうなんですねと観る側は言うしかないんですが。

林富士夫大尉が証言の中で歌っていた歌は「空だ男のゆくところ」という歌。
出撃する隊員達がよく歌った歌だそうです。
この「空だ男のゆくところ」、中根久喜中尉の遺品ノートに書いてあって自分が思いついた言葉を書いたものだとずっと思っていたのですが歌のタイトルだったと判明、タイトルだけで歌詞がなかったので。
中根中尉や大橋中尉が歌ったかもしれない歌・・・。

昭和20年4月1日から6月23日まで行われた沖縄作戦中の特攻出撃は1915機、連合軍の被害は撃沈36隻、損傷368隻、戦死5000名、負傷4800名だったそうです。
特攻の戦果は大したことはないと言う人もいますが、確かに空母を沈めなければ戦果とは言えないだろうと言うならばそうなのかもしれませんが、そうでないなら結果としては大したことはないというレベルではないと思うのですが。
何でもそうですがやらない人間ほど後になってグダグダ言うのあれ何なんでしょうね。
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