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埼玉・講演 番外編  

会場内の別のホールで「平和展」という写真などが展示されているコーナーがあったので観ました。
入ってすぐの場所に展示されていたのが、
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平馬康雄陸軍曹長(22歳)。
後ろにいた女性の「あ、平馬康雄さんだ」の声に地元では有名人なのか?と展示パネルを読んでみました。
昭和20年4月7日、越谷周辺にB29爆撃機約90機とP54護衛戦闘機約30機の編隊が上空に現れ、平馬曹長は五式戦を駆ってこれを迎撃、単機で敵編隊の真っ只中に突入し再三に亘り攻撃を敢行したそうですが埼玉県南埼玉郡新方村(越谷市)上空において集中砲火を浴び、愛機とともに水田に激突泥中深く埋没したとのこと。
遺体の一部や機体の一部は地元の人によって集められたそうですが、機体そのものの発掘作業は農耕馬でも身動きできなくなると云う底無しの湿田で湧き水に妨害されやむなく中断、遺体と共にそのままになってしまったそうです。
その後、地元では「B29に体当りして散った勇士」として塔婆を建てて供養が続けられ、命日には必ず線香と花が添えられたそうですが、年月の経過とともに忘れ去られようとしていましたが、肉親の切なる願いと、かつての戦友が組織する地元少飛会員の熱意が結実し、水田に埋もれていた五式戦闘機が、関係市当局と陸上自衛隊の全面的支援を得て発掘されることとなり、戦後27年が経過した昭和47年2月14日、平馬曹長のお母さんも福井県から来られ、多くの関係者が見守るなか地中から遺体と遺品が収容されたそうです。
戦死後、お母さんは平馬曹長の上官から「越谷の田に墜落戦死」と聞かされたそうですが、当時は戦死しても遺骨も遺品すら戻ってこない遺族がたくさんいることを思って「現場はどこで、遺体は、機体は?」と問いたい気持ちを抑えたそうです。
それから25年が経ち、墜落現場の詳しい場所が判って、お母さんは自費ででも発掘して息子を故郷で眠らせてやりたいと越谷市長に嘆願書を書いたそうです。
息子さんが自分の元に帰ってきてお母さんはホッとしたでしょうけれど、生きて帰ってきてくれてたらという諦めきれない想いは生涯持ち続けたのではないでしょうか。

平馬曹長は農家の六人姉弟の長男として生まれ、大空を駆ける飛行兵に憧れてはいたものの農家の長男という事もあり農林学校に進みましたが四年生になったある日親に内緒で少年航空兵学校へ受験しに行ってしまったそうです。
両親は合格したことを知って驚いたそうですが、本人の意志は固く16歳で憧れの東京陸軍航空学校へ入学しました。
熊谷陸軍飛行学校を卒業、昭和18年8月には南方で撃墜され海に落ち腕に怪我を負ったものの岸まで辿り着き命拾いをしたこともあったそうですが、後に千葉県の東部一一三部隊「桜隊」に所属、関東防衛にあたっていた最中での戦死でした。
戦闘機乗りともなれば人知れず最期を迎えるのが宿命ともいえるというようなことを本で読んだことがありますが、時間はかかりはしましたが親の元へ帰れた平馬曹長はまだ幸せだったのかもしれません。
平馬曹長が乗っていた戦闘機の一部も展示されていました。
靖国神社の遊就館にも手袋や被服の切れ端、機体の一部が展示されています。

後は、原爆投下される前の朝から始まるアニメも観ることができました。
戦時下ではあるけれどいつもと変わらない朝、それが一瞬で地獄と化す・・・こういうの観るといつも思うのですがこれを作った人達はいつかそれが自分の上に降ってくるかもしれないという事を考えたことがあるのだろうか?
馬鹿坊が指導者やってるあの国も、かつて日本に核を落としたあの国も日本からやってきた学生のスピーチに横槍入れた核保有国の人間も考えた事あるのだろうか?
こういう人達は自分の上にそれが初めて降ってきた瞬間に自分たちの罪深さに気付くのかもしれないなと思う、まぁそうなったら残念なお知らせではあるけど自分の命だけでなく自分が大切に思う人達の命までもなくなってしまうことになってしまうんだけども。
けどそれだとあまりにも愚かすぎるわなと思う、理性も知性もあるのが人間のはずなのに。

今回の講演会は遠出した甲斐がありました。

新越谷駅の中にある雑貨屋さんで仕事に使う文房具なんかを買って移動。

人形町へ








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