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埼玉・講演 ① 関 利男さん  

靖国神社を後にして埼玉へ、靖国神社でゆっくりしすぎてちょっと焦る。
都会の電車って何でこうややこしいのか・・・解らなければ駅員さんに聞くを今回何度やったか皆さん親切でしたが。
九段下から50分足らずで新越谷に着きました。
初めての場所なのでどういうところか全然判らなかったのですがショッピングセンターなんかがあって賑やかなところでした。
13時頃着いて会場まで徒歩数分らしいので歩いてたら人が並んでるお店があってのぞいたらお団子屋さんでした。
お団子以外にもお寿司やお弁当もあって、つい並んで買ってしまった
会場にも迷わず辿り着けました、若い人がたくさんいたのでこんなにも若い人がとちょっと感動したのですが・・・違ってました、同じ会場の違う場所でゲームのイベントがあったからでした、日本は今日も平和でようございました。

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受付でもらったチラシ。
越谷市は平和事業に取り組んでいて、広島市の原爆慰霊祭にも市内の学生さんを参加させているそうです(今年は15名、毎年この人数かどうかは判りませんが)。
最初の方に学生さんの代表5名の感想文が発表され、その後に講演。
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講演者は、関利雄さんと田中三也さん、御二方共に93歳です。
田中さんの講演を聞きたくて来たのですが、陸軍の戦闘機の搭乗員(陸軍は搭乗員とは言わず空中勤務者と言うらしいのですが)の方の講演も聞けるとは遠出した甲斐がありました。
田中さんの講演は先月茨城の方でもあって本当はこちらにいくつもりで仕事の休みも調整してたのですが、どうも会場がかなり交通の便が悪いところで最寄駅からもタクシーを使うしかないようでいろいろ考えてたらもう行ける気がしなくなってきて・・・で、今日の講演なら会場も駅から近いしということで仕切りなおしてということです。
参加者も年配の方が多かったです、若い女性は数人(もちろん私は数に入れてませんよ)。

田中さんは著書を何度も読み返してるので予習できてるのですが、関さんはこの日まで存じなかったので横文字の地名などチンプンカンプン(地名、人名覚えるのが苦手なのもので)で講演でお聞きした話と帰宅後ネットで調べたりして、これはこういうことなのねと復習。

関さんは大正12年生まれで、映画「燃ゆる大空」を観て飛行機乗りに憧れて少年飛行兵の11期(海軍で言う予科練?)として大空への一歩を踏み出します。
飛行機乗りを目指す少年達は陸も海も変わりなく第一希望は戦闘機が多かったようで、関さんも当初の志望通り戦闘機過程に進む事ができて訓練を受け戦線へ。
昭和18年4月飛行第77戦隊配属、乗った戦闘機は隼だったそうです。
昭和19年1月初陣。
      2月14日にマラリアを発病して、主力戦隊のメンバーとしてニューギニアに発つことになっていましたが遅れて合流することになり居残り。
        25日に体調がまだ本調子ではなかったけれど本隊を追います・・・が、戦闘機が故障、ブル島というところに降りますがそこで本隊メンバーの少尉と関さんの同期生の2人がやはり戦闘機の故障で降りていて、修理してもらったものの3機中2機しか飛ぶことができず1機は少尉に残りの1機は関さんと同期生がジャンケンで決めることに5回ジャンケンして5回全て関さんが負けたそうでまたしても居残り、ジャンケン弱すぎと思わず笑ってしまいましたが、関さんにとってはこれが運命の分かれ道に。
先に発った2人はこの後1ヶ月以内に戦死してしまったそうです。
結局戦闘機は修理できなかったようで、連合軍が上陸してきたのでサルミというところまでジャングルを200キロ歩いて移動、病気や飢えで百名弱の中で生き残ったのは関さんともう一人のみだったそう。
以降、戦闘機もなくあちこち移動して6月初旬シンガポールへ行きますが7月飛行第77戦隊は解散と決まり、 新編成の第17錬成飛行隊に。
そこで8月初旬から特別操縦見習士官第1期生(学鷲・海軍では予備学生士官?)40名ほどの実戦機による錬成教育の教員に。
短期訓練しか受けていないため1ヶ月の訓練の間に飛行機が半減してしまう。
20機を訓練用に、20機を実戦用にしたそうですが特別操縦見習士官の人達に壊されまくり隼に複座を付けて訓練をしたそうです。
2人羽織風で足を関さん達教員がやり、操縦桿を持たせて感じを掴ませるというような方法で。
昭和20年1月 B29を初撃墜しますが、関さんの戦闘機も被弾。
      6月B24を撃墜(10人が乗っていて6人が死亡4人生存(後に処刑))。
後に特攻命令が出たそうですが出撃せず、シンガポールで玉音放送を聞いたそうです。
そこからは抑留生活も経験することになって昭和21年5月に復員なさったとのことです。

陸軍の少年飛行兵になって夢だった戦闘機の操縦士になった関さんですが一番の想い出は郷土訪問飛行だそうです。
通常は禁止されている郷土訪問飛行ですが何かの記念日でその日は各地で郷土訪問飛行が行われて(少年飛行兵への勧誘デモンストレーションの意味もあったようです)帝都での訪問飛行7名のメンバーに選ばれて飛んだとお話しされてました。

撃墜の戦果については戦後も操縦士だった自分の誇りとして講演で話したりしていたそうですが3年前に自分が撃墜したB24の遺族の方と知り合い、敵だったとはいえその人達にも家族がいてその遺族は戦後も苦しんでいることを知ったそうです。
メールでやり取りをしているそうで、遺族の方のメールには「戦死した叔父は祖国に戻ったら結婚する約束をしていた。その女性にとって叔父は理想の人であったと私は信じています」「戦争には勝者も敗者もありません。ただ全ての人に悲しみを残すだけです」と書かれていたそうです。
亡くなった方の写真も見たそうで・・・。
以前のブログでも書いた事があるのですが、当時の搭乗員の方のお話では敵機が火を吹いて墜ちても飛行機という物でしかないのに味方の飛行機だと人が墜ちるという感覚なのだそう。
その感覚は私にも解る、特攻機が米軍の高射砲に撃たれて墜ちていくのを映像で見る度人が乗ってるのにと叫びだしたくなるほどの恐怖を感じるのに、特攻機に突入される敵艦はただの艦でしかないという・・・その艦の乗組員は恐怖の形相で右往左往しているはずなのに。
多分、関さんもそういう感覚だったのではないかと・・・それが遺族と知り合って遺族から写真を見せられどんな人だったのかとか結婚の予定があったとかそんな事を知ってしまったらもう敵とはいえその人は知らない人ではなくなってしまった、その瞬間から複雑な感情が芽生えてしまったみたいな、罪悪感?。
何か気の毒な気がしました。

戦闘機の操縦士をしているときは何度も空戦に上がったそうですが敵機を見つけるまでは怖くて震えが止まらなかったそうです。
空戦を繰り返してるうちに慣れて恐怖心もなくなると言う人もいたけれど自分は最後まで怖かったと関さんがおっしゃってたことが一番心に残りました。






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