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頂き物 ②  

中根中尉の御遺族のM様より頂いた物の中にもう一つ貴重な物が・・・
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「神雷部隊櫻花隊」という小冊子をDVDに保存した物です。
戦友会の「羽衣会」が昭和27年2月10日に発行した遺族や生存隊員の寄稿文が収められた冊子です。
要務士(搭乗員ではないですが事務職全般をマネジメントする仕事だそう)だった鳥居達也氏の尽力で作られた1冊。
終戦になり部隊が解散するとき隊員同士で3年後の3月21日(神雷桜花特別攻撃隊が初めて出撃した日)に靖国神社で会おうと約束したそうで、昭和23年3月21日に元隊員40名が集まり慰霊行事を行いその時に戦友会が設立され当時はまだ占領下だったために名称を「羽衣会」(後に海軍神雷部隊戦友会と改称)としたそうです。

まだ戦後7年しか経っていないせいか、遺族や元隊員の方達の心の内の声が生々しいというか・・・今みたいに想い出を書くという感じでないのが読んでて胸が締め付けられるような苦しい気持ちになることが何度もありました。
戦友たちの事を書いてらっしゃる方、当時の自分たちの心境を書いてらっしゃる方、いろんな方がいらっしゃる中で親御さんや御兄弟の方が書いてらっしゃる寄稿文が読んでて辛かったです。
畑仕事の傍ら亡くなった息子を思い出し泣くお母さんは、〝自分達には過ぎた良い子だったお前に、せめてもう少し豊かな人生を味わわせてやりたかった〟と書かれていました、あるお父さんは、〝息子が可哀想でならない世間の方は何と思って居られるか、息子は言いました「私共が死ななければこの国を救うことが出来ないから・・・」と。又君に忠、即ち親にも孝となると申して行きましたが、今となれば犬死の様に世間からは取り扱われているように思えて本当に可哀想で諦めることができません〟と、このお父さんにしたら息子を亡くしてそれだけでも充分心に堪えてるのに世間が特攻隊員についてどういうことを言ってるか耳にしてしまったから悔しいし情けない思いがこの寄稿文になったんだと思います。
戦死したから遺品が届くと連絡がきたけれどいくら待っても遺品が届くことはなかったと、それだけが残念だと書かれている遺族が数人いらっしゃったこと。
人の息子死地に追いやりながら遺品すら遺族に戻さない国って何だよ、他人からすればただの物でも家族からすれば亡くなった息子が遺した何よりも大切な品なんだぞ。
中には息子が出撃時戦友に託した遺品が、何人もの手に託されて(託された戦友も出撃で亡くなる為)届きましたという寄稿文もあって戦友同士の絆ってすごいなと思ったり。
親御さんが息子を想う気持ちに年月は関係なく、同じ年頃の人を見ては息子も生きていたら・・・と年を追うごとに悲しみは風化することなく深くなっていくものなのだなと思いました。
「親思う心に勝る親心」吉田松陰が詠んだ歌を思い出しました、でもこの頃は子が親を思う心も相当深いと思いますけど。

細川八朗中尉(予備学13期)と鳥居達也氏の書かれた寄稿文が一番心に残ったかなぁと。
細川中尉の寄稿文は多分、当時予備学生士官が胸に抱えていた思いを的確に書かれているのではないかと思う。
元々、兵学校や予科練出身の方達とは違う生き方をしていて当時の世の中がそれを許さないから軍というものの中に身を投じたけれど、その中で彼等なりの矜持を持って戦っていたということ、でもその胸中は複雑そのもので・・・。
鳥居氏の寄稿文は〝戦後、われこそ反戦主義者、平和主義者であったと言い出した人間にならばどうしてあの時戦争を防止するよう闘ってくれなかったのか、先見の明ある人達が全力で闘ってくれていたら、われらの友を始め世界の多くの若人たちは尊い命を弾と共に散らさずにすんだのではないか!!この言葉を激しく当時の上層政治家や軍人に叩きつけるものである。〟
激しい怒りと血を吐くような叫びだと思いました。
物事が済んだ後で、あのとき本当はこう思ってたんだよねぇなんて言い出す奴にロクな人間はいない。
仮にそう思っていたとしても、その時に主張せず流されてしまったのならばそれはもうないも同然の事であり、終わった後でもう何も言うなと思う。
一般市民ならまだしも、上層政治家や軍人が戦後それを言っちゃあマズイよねと。
裁かれなくても上層政治家や軍部の上層部にいた軍人にはやっぱり責任の一端はあると思う、なのに戦争が終わったとたんに自分は平和主義者だったのよはないわな。
恥を知らない人間は自分の罪と向き合うこともせず平気な顔で生きていく、その陰であの戦争で命を懸けて戦った人も戦って亡くなった人もその遺族の気持ちも報われず救われない。

湯野川大尉も寄稿文を書かれていました。
戦後6年、幾度か特攻の記録執筆を依頼されたが、到底生きて居る私達は書き得ないと思っていると書いてらっしゃいました。
まだ6年しか経ってないのにもう過去の事として世間では捉えられてるのかと、驚いてしまった。
中根久喜中尉と大橋進中尉の事も書かれていました。
〝中根中尉が「弾は煙突に機体は艦橋にと何故別々に突っ込まぬのか」と質問して来た。真の特攻を決心した搭乗員にのみ言い得る快心の鋭い反問であった。〟
上の人間が考えてるマニュアルのようなものは言うだけなら簡単やというようなお粗末さだったようなので、中根中尉の疑問は多分大方の人が思ってる疑問だったのではないかと思う。
それをはっきり言うか言わないかだけで。
大橋中尉については〝初夏の夜、富高の海辺の砂浜に寝転び無窮の星座を眺めつつ、人類の愚かさを語り合った大橋進中尉がたまらなく懐かしい。〟
この人達はこの時人類の愚かさを(戦争という愚かな行為を)理解していたのだ、若いけど。
それを人生経験も豊かなはずの年配者は何故解らなかったのだろう、若い人は人生経験は浅いけどその代わりに物事の本質を濁りのない目で見ることができるからかもしれないなと思う、人間は年を取るといろんな経験と共に欲とかそんなもので目が濁り自分にとって都合のいい物しか見えなくなっちゃうものなのかもしれない。
戦後7年、それから何十年か後に伝記の中に再び出てくる御二方、湯野川大尉の中では長い時が流れても大切な人として胸の中に残っているんだな。
上官と部下というよりも友や兄弟に近い想いを感じるのは私だけかなぁ。
兵学校出の士官と予備学生士官の確執は結構有名な話で、よその隊では兵学校出士官の予備学生士官への陰湿な暴力なんかもあってそういうのを読むたびに気分が悪くなってたのですが、神雷部隊ではそういうのはなかった?のかな。
林富士夫大尉が部下でもあり親友だったと話していた西尾光天中尉も予備学13期の方だったので、変な先入観を持たずに接すれば確執なんてものは起こらなかったのではないかと思う。
自分達兵学校出はこいつらとは違うんだというつまらない優越感を持ってる人間はどこにでもいますがこういうのって人間が狭量なんだろうなと。
威張るより相手を理解しようと考えて行動する人が本当に頭のいい人だと私は思うけど。

貴重な品を下さったM様、本当に有難うございました。







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category: 大東亜戦争

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