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「人間爆弾「桜花」ー特攻を命じた兵士の遺言ー」 2  

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手前が森忠司中尉(昭和20年4月6日戦死)、奥に写っているのが西尾光天中尉(昭和20年4月7日戦死)
写真をじっと見てて今気付いたのですが、これサイドカー付のバイクに乗ってる写真だったんですね・・・今更。
今年の2月に筑波海軍航空隊記念館で撮ってきたものです(元写真は中根久喜中尉のアルバムより)。
映画では当時自分が思ってたことなんかをポツリポツリ話す以外に林大尉の口から名前が出たのが西尾中尉とみさこさん(馴染みの芸者さん)だけでした。(私が記憶してる限りでは)
西尾中尉の事は映画で林大尉が話していましたが、森中尉は林大尉の手記の中に出てきます。
中根中尉のアルバムには森中尉の写真が割と多く遺っていました。
西尾中尉は中根中尉とは日大の同級生、神雷部隊でも交友がありました。
当時西尾中尉には妙子さんという恋人がおりその人と結婚式をする為に隊を抜け出します(隊長である林大尉は知ってて知らぬふりをしてくれてるのですが)。
これは違反行為です。
その結婚式の立会人が中根中尉と安井三男中尉で3人は寒風激しい中自転車で妙子さんが働いている木内旅館(千葉県香取市)まで走ります。
当時彼等がいたのは神ノ池基地(茨城県鹿嶋市)距離にして22㎞位?今なら車で30分位、自転車だったら1時間はかからなそうですが・・・今の私達より足腰はかなり強いと思われるので。
寒さ厳しい中今みたいに暖かい下着もないのに相当寒かっただろうなと想像してみる。
中根中尉と安井中尉は、もう残された時間が少ない西尾中尉と妙子さんの為に一肌脱いだのでしょう。
木内旅館に着いた後、西尾中尉と妙子さんは三々九度を済ませ床入りになるのですが二人は布団に入って手を握り合って目を閉じました。
しばらくして西尾中尉が目を開き「よし、これで済んだ。安心して征ける」と納得した口調で呟いたそうです。
呆気に取られた中根中尉と安井中尉が「おい西尾、こんなんで本当にいいのか」と問いただしても「いいんだ、いいんだ」と西尾中尉は取り合わなかったそうです。
その間妙子さんは布団の襟に顔を埋め、嗚咽を堪えていたそうです。
実際、林大尉が西尾中尉と妙子さんの事をどこまで知ってたのかは知りませんが、西尾中尉について遺っている話です。
西尾中尉の戦死後妙子さんはどうしたのかは書かれていないのでその後は判りませんが、こういう話を読むたびに思うのは一人の方が戦死した陰でどれだけの人間が泣くのか。
特攻は統率の外道だと言い、戦後責任とって自決した人がいましたが、この人の命くらいで贖うことはできないだろう罪です。
本人は責任をとったつもりでしょうが、口では大きいことを言いながら戦後知らん顔して恥ずかしげもなく生きた人間よりは少しマシという程度の事です。
人にはそれぞれ立場がありそれぞれの苦しみがあるだろうけど、踏み越えてはいけない一線というものがあると思う。
それを踏み越えてしまったら、最初のうちは苦しむかもしれないけどいずれその感覚も麻痺して行け行けドンドンになってしまう。
人間に捨て石捨て駒という言葉は当てはまらないはずがそうなってしまう。
全ての責任は自分が負うなんてかっこいいこと言ったって、死んだ(この場合は殺した)人やその人を大切に思う人の人生までどうこうできないだろ。
生き返らせて待ってる人の元へ帰す魔法でも使えるなら大口叩いてもらっても一向に構いませんが。

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中学生の頃の林大尉。
この方、童顔なんですかね、下の集合写真で見た感じこの頃とあまり変わらないような。

桜花 士官集合写真
映画で出てきた集合写真です。(中根中尉アルバムより)
クリックで大きいサイズになります。
一列目右端が林富士夫大尉。
二列目左から8番目西尾光天中尉、左隣が中根久喜中尉、西尾中尉から一人置いて大橋進中尉。

神雷部隊には他の部隊にはない4つの特徴があるそうです。
①人類史上初めて体当たりを前提として設立された航空隊である。
②人間爆弾「桜花」を実戦で使用した唯一の部隊である。
③零銭に500キロ爆弾を搭載した体当たりを行った(他の部隊では250キロ爆弾を使用)。
④海軍特攻を象徴する部隊として最多の特攻戦死者を出した部隊。
林大尉はこの特徴全ての事に関わりました。
③については零戦に500キロの爆弾を搭載については搭乗員は懸念を示したそうです。
零戦の搭載量は最大で700キロ程度なので500キロ爆弾の搭載は可能ですが、250キロ爆弾搭載時よりは当然重くなるわけで離陸が難しくなり、出撃するだけでも相当な技量が必要とされたそうです。
エンジン出力を全開にして離陸しても速力がつかず機は上昇力に欠け、飛行場いっぱいを這うように飛行してもなかなか浮上せず50mほどの高度をとるのにも時間がかかったそうです。
実験では成功したそうですが(技量がある搭乗員だったので)、実際搭乗する人のほとんどは飛行時間も少ない人達だったと思われるので結果としてはどうなんでしょう。
搭乗員の不安感を払拭する為に林大尉が800キロ相当の物を搭載して飛行実験して成功させたそうですが、実際は重い爆弾を搭載して沖縄まで飛ばなければならないし、途中で敵戦闘機に待ち伏せされたり、敵艦の上空まで辿り着いたとしてもまたそこから対空砲火を避けてと二重三重の難関を突破しなければならないわけでそんなことを考えたらとてもじゃないけど突入なんて不可能になる。
相当な技量を持ってても成功させるのは難しい気がします。
林大尉の心意気は立派なものだと思いますが。
やれと言われればやるしかなくて不満も怒りも飲み込んで征かなければならなかった搭乗員の方達の事を思ったらやりきれない。④については部隊の特攻戦死者が多いのは桜花を抱えて飛ぶ陸攻の搭乗員が多いからだと思います。

当時林大尉には馴染みの芸者さんがいて、せっせと逢いに行ってたそうですが、その手段がちょっとどうかと・・・往復陸攻に乗ってということで(林大尉だけではないですけど)、インタビューしてた人も驚いて「(そんなことに陸攻使って)いいんですか?」と聞いてましたが「あの頃は芸者を乗せて基地に呼んだりした」と・・・ガソリンも不足してた時にそれやるかと・・・下士官兵は「ガソリンも血の一滴」と言って頑張ってたのにそれしたらあかんやろと。
日本は下士官兵が優秀だけど上にいくほどそうじゃなくなるというのは本当だったんだなと思ってしまいました。
赤裸々に語って下さったのは有り難かったのですがこの話は別に話さなくても良かったんじゃ・・・

筑波海軍航空隊記念館に建っている慰霊碑の碑文を書いたのは林大尉だそうです。
初めは筑波海軍航空隊に何か関係があるのか?などととぼけたことを思っていたのですが、林大尉にとってはここからが特攻に関わっていく事になる最初の場所だったんだと後日気付いた。(筑波海軍航空隊で教官をなさってたそうで)
記念館に行きながら慰霊碑があるのも知らなかった大馬鹿者は私です。
以前は違う場所にあったそうですが今は移転して正門を入ってすぐ、左手にあるそうです。
2月に行ったときはまだ移転前だったのかな・・・どっちにしてもボンヤリしてた私が悪い。
次はきちんと参拝しなければと思う、いつになるか判らないけれど。

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