FC2ブログ

大好き

好きなもの、日常の事などいろいろと・・・

靖国神社 遊就館 覚書のようなもの  

今回遊就館で見たかったのは菅野大尉のお財布ですが、他にも展示されていて印象に残った遺品があったので感想を覚えてるうちに書き留めておこうかと。

無題227
石川一彦陸軍中尉(写真・左)
香川県出身。
昭和17年陸軍航空士官学校卒、少尉候補者第22期生として任官。
奥様のふさ江さんとは同郷で昭和18年3月、見合い結婚、ふさ江さんは21歳石川中尉は28歳でした。
「神様みたいに優しい人」だったとふさ江さんは語っています。

飛行教官で各地の飛行学校を転々としたそうです、赴任先への列車、公務の石川中尉は2等、奥さんは3等車と分かれましたが、石川中尉は駅に着くたびホームに降り、窓越しに妻の体調を気遣った。
泊まり込みの週番勤務の時は、忘れ物にかこつけて従卒に様子を見に来させた。
つましくも、幸せな暮らしだったようです。

昭和20年1月千葉・銚子飛行場へ転勤、奥さんは2人目の子を身篭っていたので石川中尉は「落ち着いたら呼び寄せるから」と単身で赴任したそうです。
新しい任務は特攻でした。
石川中尉は教官でしたが教え子達だけを特攻に出すのが耐えられなかったのか自ら志願して隊長として出撃することになったそうです。
亡くなる10日前父親に出した手紙には、

「(前略)明日から当分下志津及壬生に於て最后の腕を磨いて行く予定です。
ふさ江は子ども二人を抱え今後苦労多き事と存じますが、
今は総てを犠牲にして任務に邁進するのみです。
嫁として色々と行きとどかない処も多い事と存じますが小生の妻として
文太郎、文男ともに可愛がって面倒を見てやってください。
尚、御両親様には今迄何一つ孝行もできませず、誠に申し訳有りません。
母上様やふさ江には私が特攻隊長になったことは言わないほうが
いいと考えますゆえ、当分父上様の胸の中に置いてください。」

母親や妻の気持ちを考えて特攻隊長になった事を父にだけ知らせ口止めしています。
その事を夫の上官から知らされた奥さんは2月に産まれた次男を一目夫に見せようと会いに行ったそうです。
4月3日石川中尉は沖縄の米軍艦船攻撃のため特攻機で福岡・大刀洗基地へ移動中、山口県内で濃霧の山中に激突し殉職。
この日、奥さんは大刀洗近くの甘木駅まで来て駅舎で夜を明かしていた。
夫の死を知り、香川の石川中尉の実家に帰り着くまで、汽車の中、声を殺し、泣き続けたそう。
「体じゅうがとけ出したかと思うほど涙がだらだらあふれ出て、着物のひざがびしょびしょになった」と。
戦後は女手一つで子供2人を育てあげたそう、この頃は婚家に子供を置いて自分は実家に戻り再婚という道を取る人もいたようですが、ふさ江さんは再婚を考えた事もなかったそうです。
悲嘆や絶望(赤痢で命を落としかけたことも)で幾度となく亡くなった夫に助けを求めた、ふさ江さんの戦後でした。
「夫が生きた証し、夫との日々をかたちにとどめておきたい」と歌を詠み始めたそうで、

ひそと受くる公務扶助料(恩給)は 戦に果てたる夫の血のしたたりか

という歌を詠まれています、本当はお金なんかではなく夫を生かして返してくれと心の内では叫んでいたのではないかと思ったりする。 

その石川中尉が身につけていた手帳が遺品として展示されていました。
その手帳には赤ちゃんの写真が挟まれていて、手帳の開いたページの上に乗せられていました。
手帳には今も使われているかのように書かれた文字・・・そこに子供の写真、それがとても生々しい感じがして今でも忘れられません。
手帳に挟んで時折見て〝どうしてるだろうか、会いたい〟などと思っていたんだろうとその時の石川中尉の気持ちが手に取るように判って辛かったです。
私の母方の祖父も戦地で幼い母の写真を見ては会いたいと一人で泣いたそうです(写真の裏には祖父が母を思って書いた詠が書いてありました)。
その話を母から聞いていたので余計に石川中尉の事が心から離れなかったのかもしれません。

出撃前、石川中尉はふさ江さんに遺詠を残していました。

「ゆかしき心もて 銃後に備えよ 大和なでしこ 」

夫を亡くして59年目にふさ江さんが詠んだ返歌は

「なでしこよとわれに遺(のこ)して出で征きし 夫の心に添はむとおもふ 」

神様みたいに優しかった人とのたった2年間の結婚生活、その人を愛し続ける気持ちは色褪せることなく深く想いつづける気持ちに年月は関係ないのだなと思いました。



無題228
植村眞久海軍大尉
東京都出身
昭和18年9月第13期飛行予備学生
昭和19年10月26日 神風特別攻撃隊大和隊、第一隊々長として出撃
レイテ島東方海面の米機動部隊に特攻、散華(享年25歳)

「愛児への便り」
「素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。 素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。
 素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、 若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。
 お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ、 必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思びます。 生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。 またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、 御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。 必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。
 優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讃んで貰びなさい。
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ

追伸、
 素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。 だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。 」

私がこの手紙を初めて読んだのは、19、20歳の時でした。
大阪心斎橋大丸で「学徒出陣~ペンを銃に持ちかえて~」をテーマにした遺品展示が催事場であってそこで見ました。
大阪、十三の祖母に家へ遊びに行ってたのでそんなに遠くもなかったし回天の展示(本体か一部かどちらかだった)もあって、両親からの話でしか聞いたことがなくいまひとつどんなものか想像がつかなかったので見に行く事に、妹と一緒に行きました。
本当に軽い気持ちで行った事を後で後悔する事になるのですが・・・。
そこには勉強に使っていたノートや日記、日本画家をめざした学生が描いた鳳凰(と記憶している)の絵等が展示されていました。
鳳凰の絵がとても印象に残っています、鮮やかな色彩が美しい作品でした。
芸術の世界で生きて行くのは大変で名を残す程の画家になろうと思ったらそれなりに苦労はしたでしょうが、望まぬものに無理矢理夢を奪われるよりは苦労のし甲斐もあったのではないかと。
そんな中に植村大尉の愛児への手紙も展示されていました。
何気なく立ち止まって読み始めた手紙でしたが・・・そこから動けなくなってしまいました何故なら涙が止まらなくなってしまったから。
妹は判っていたので何も言わず待っててくれました。
私は父親っ子(今でこそ毎日一緒は辛いとこぼしてますが)だったので、この手紙から溢れ出る父親の愛情が痛いほどに理解できたからです。
この時は自分は幸せだ大好きな父と一緒に暮らせるのだからと思ったものです。


内地を出発する前夜、植村大尉は大村基地から東京の自宅に長距離電話をかけました。
妻に生後三ヶ月の娘・素子さんの声を聞かせてくれるよう頼みましたが、素子さんはにこにこ笑うだけで声を立てない。
植村大尉は「お尻をつねって泣かせてくれ」と頼みます、でも妻は笑っている娘にそれも出来ず、乳を含ませて飲み始めたところで
離すと泣き出したそうです。
植村大尉は電話越しに娘をあやし、やがて電話を代わった母親に「子供は本当に可愛いものですね。お母様たちのご恩を深く感じます」としみじみ語ったという。

娘の素子さんは父・植村大尉が散華してから22年目の昭和42年3月、父と同じ立教大学を卒業。
4月22日素子さんは靖國の社に鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。
舞い終わり友達から花束を受け取った素子さんは、「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語ったそうです。
無題229
「桜変奏曲」を舞う素子さん。

娘の成長を植村大尉も喜んでいたと思いますが、生きて奥さんと共に娘の成長をそばで見守りたかったことと思います。

初めて植村大尉の手紙を読んだ時から長い年月を経てまた実物に遊就館で出合う事になりました。
再び出合ったことで、あの時に感じた気持ちを思い出せた、父も私もお互い歳とってくたびれてきて一緒に居る事がストレスになってきて、それでも親だから仕方ないかと思いつつ・・・それでも一緒に暮らせる事って有難い事なんだなと。
たまに一人で旅に出て一人って幸せ~ってガス抜きして、またいつもの日常に戻る、あの頃みたいに素直な心で幸せだと思えない自分もいるけどまぁそれなりに上手くやっていこうと思ったのでした。
そばで成長を見守ってくれた父、親孝行しないとね、ダメだよね。






スポンサーサイト



category: 大東亜戦争

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://mizuki1.blog41.fc2.com/tb.php/2144-c35cd3ac
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)