大好き

好きなもの、日常の事などいろいろと・・・

有難い事です。  

先日、中根中尉の御遺族のM様より御電話をいただきました。
2度目なので少しは落ち着いてお話できたと思うのですが…何かおかしなこと言わなかっただろうか・・・
ブログの感想などを話して下さいました。
8月に観に行った映画「人間爆弾「桜花」ー特攻を命じた兵士の遺言ー」の事を書いた記事も読んで下さったそうで、その事についてもいろいろお話を聞くことができました。
映画を観て私が疑問に思っていた事についても納得できる答えをいただき、遺族の側から観た感想も話していただきました。
同じ映画を観ても、立場によって感想や受け止め方も違い勉強になりました。
ドキュメンタリー作品は難しい。
それに関わった人が多い事柄ほど慎重にいろんな人へのインタビューを時間をかけて行い、作り上げないといけないものなんだなと思いました。
確かに気の遠くなるような時間がかかる作業かもしれないけど。

大橋進中尉の御遺族の方からコメントを頂いた事も自分の事の様に喜んで下さり嬉しかったです。
こういう話は父や友人に話したところで「へえ、そうなの」で終わっちゃうと思うので。
M様に頂いた「神雷部隊櫻花隊」の中には戦死者の名簿も掲載されており、そこには住所や遺族代表の方の名前も載っていたのですが(今では個人情報なので有り得ない事ですが)、大橋中尉の部分は住所は書かれておらず遺族代表はお母さんなっていました。
そこから、おばさんのモヤモヤした想像が発動。
「大橋中尉ってもしかしたら一人息子?でも桜花の隊員募集は長男、一人息子、妻子持ちは除外だったな・・・ああっでも中根中尉は長男やんか(妹さんはいらっしゃるけど)・・・男兄弟はいるのだろうか?」とかいろいろ。
遺族代表がお母さんだからって母子家庭だとは限らない、お父さんがいても戦後亡くなってる可能性はなくもないし。
70数年後に他人がよそのお母さんの心配しても仕方ないのは解ってるものの、息子を戦争で亡くしたお母さんがたった一人残され生きて行くにはあまりにも世間の人は冷たく国も酷かったので。
一人息子じゃなくても女手一つで育てた4人いた息子は長男殉職、次男、三男、四男は戦死、長女は病死と全て子を亡くし、戦後は息子の軍事恩給だけが生活の糧だったのにそれすら打ち切られて子供達の想い出の残る家も手放さざるを得なくなり最期は病で亡くなったというお母さんの話を本で読んだこともあって、男兄弟がいても兄弟で戦死してしまったらなどと考えていろいろ考えてはモヤモヤ
そんな時に大橋中尉の御遺族の方からコメントを頂いて大橋中尉にはお兄さんがいらっしゃったこと、コメントを下さった方はお兄さんのお孫さんだそうです。
お母さん一人ぼっちで残されたわけではなかったんだと・・・だからって大橋中尉を亡くしたお母さんの気持ちが救われるわけではないんだけど・・・私のモヤモヤが晴れただけで。
そんなことも話していろいろ聞いていただき、私にとっては有意義な時間でした。

M様有難うございました。


拍手お礼は続きより









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頂き物 ②  

中根中尉の御遺族のM様より頂いた物の中にもう一つ貴重な物が・・・
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「神雷部隊櫻花隊」という小冊子をDVDに保存した物です。
戦友会の「羽衣会」が昭和27年2月10日に発行した遺族や生存隊員の寄稿文が収められた冊子です。
要務士(搭乗員ではないですが事務職全般をマネジメントする仕事だそう)だった鳥居達也氏の尽力で作られた1冊。
終戦になり部隊が解散するとき隊員同士で3年後の3月21日(神雷桜花特別攻撃隊が初めて出撃した日)に靖国神社で会おうと約束したそうで、昭和23年3月21日に元隊員40名が集まり慰霊行事を行いその時に戦友会が設立され当時はまだ占領下だったために名称を「羽衣会」(後に海軍神雷部隊戦友会と改称)としたそうです。

まだ戦後7年しか経っていないせいか、遺族や元隊員の方達の心の内の声が生々しいというか・・・今みたいに想い出を書くという感じでないのが読んでて胸が締め付けられるような苦しい気持ちになることが何度もありました。
戦友たちの事を書いてらっしゃる方、当時の自分たちの心境を書いてらっしゃる方、いろんな方がいらっしゃる中で親御さんや御兄弟の方が書いてらっしゃる寄稿文が読んでて辛かったです。
畑仕事の傍ら亡くなった息子を思い出し泣くお母さんは、〝自分達には過ぎた良い子だったお前に、せめてもう少し豊かな人生を味わわせてやりたかった〟と書かれていました、あるお父さんは、〝息子が可哀想でならない世間の方は何と思って居られるか、息子は言いました「私共が死ななければこの国を救うことが出来ないから・・・」と。又君に忠、即ち親にも孝となると申して行きましたが、今となれば犬死の様に世間からは取り扱われているように思えて本当に可哀想で諦めることができません〟と、このお父さんにしたら息子を亡くしてそれだけでも充分心に堪えてるのに世間が特攻隊員についてどういうことを言ってるか耳にしてしまったから悔しいし情けない思いがこの寄稿文になったんだと思います。
戦死したから遺品が届くと連絡がきたけれどいくら待っても遺品が届くことはなかったと、それだけが残念だと書かれている遺族が数人いらっしゃったこと。
人の息子死地に追いやりながら遺品すら遺族に戻さない国って何だよ、他人からすればただの物でも家族からすれば亡くなった息子が遺した何よりも大切な品なんだぞ。
中には息子が出撃時戦友に託した遺品が、何人もの手に託されて(託された戦友も出撃で亡くなる為)届きましたという寄稿文もあって戦友同士の絆ってすごいなと思ったり。
親御さんが息子を想う気持ちに年月は関係なく、同じ年頃の人を見ては息子も生きていたら・・・と年を追うごとに悲しみは風化することなく深くなっていくものなのだなと思いました。
「親思う心に勝る親心」吉田松陰が詠んだ歌を思い出しました、でもこの頃は子が親を思う心も相当深いと思いますけど。

細川八朗中尉(予備学13期)と鳥居達也氏の書かれた寄稿文が一番心に残ったかなぁと。
細川中尉の寄稿文は多分、当時予備学生士官が胸に抱えていた思いを的確に書かれているのではないかと思う。
元々、兵学校や予科練出身の方達とは違う生き方をしていて当時の世の中がそれを許さないから軍というものの中に身を投じたけれど、その中で彼等なりの矜持を持って戦っていたということ、でもその胸中は複雑そのもので・・・。
鳥居氏の寄稿文は〝戦後、われこそ反戦主義者、平和主義者であったと言い出した人間にならばどうしてあの時戦争を防止するよう闘ってくれなかったのか、先見の明ある人達が全力で闘ってくれていたら、われらの友を始め世界の多くの若人たちは尊い命を弾と共に散らさずにすんだのではないか!!この言葉を激しく当時の上層政治家や軍人に叩きつけるものである。〟
激しい怒りと血を吐くような叫びだと思いました。
物事が済んだ後で、あのとき本当はこう思ってたんだよねぇなんて言い出す奴にロクな人間はいない。
仮にそう思っていたとしても、その時に主張せず流されてしまったのならばそれはもうないも同然の事であり、終わった後でもう何も言うなと思う。
一般市民ならまだしも、上層政治家や軍人が戦後それを言っちゃあマズイよねと。
裁かれなくても上層政治家や軍部の上層部にいた軍人にはやっぱり責任の一端はあると思う、なのに戦争が終わったとたんに自分は平和主義者だったのよはないわな。
恥を知らない人間は自分の罪と向き合うこともせず平気な顔で生きていく、その陰であの戦争で命を懸けて戦った人も戦って亡くなった人もその遺族の気持ちも報われず救われない。

湯野川大尉も寄稿文を書かれていました。
戦後6年、幾度か特攻の記録執筆を依頼されたが、到底生きて居る私達は書き得ないと思っていると書いてらっしゃいました。
まだ6年しか経ってないのにもう過去の事として世間では捉えられてるのかと、驚いてしまった。
中根久喜中尉と大橋進中尉の事も書かれていました。
〝中根中尉が「弾は煙突に機体は艦橋にと何故別々に突っ込まぬのか」と質問して来た。真の特攻を決心した搭乗員にのみ言い得る快心の鋭い反問であった。〟
上の人間が考えてるマニュアルのようなものは言うだけなら簡単やというようなお粗末さだったようなので、中根中尉の疑問は多分大方の人が思ってる疑問だったのではないかと思う。
それをはっきり言うか言わないかだけで。
大橋中尉については〝初夏の夜、富高の海辺の砂浜に寝転び無窮の星座を眺めつつ、人類の愚かさを語り合った大橋進中尉がたまらなく懐かしい。〟
この人達はこの時人類の愚かさを(戦争という愚かな行為を)理解していたのだ、若いけど。
それを人生経験も豊かなはずの年配者は何故解らなかったのだろう、若い人は人生経験は浅いけどその代わりに物事の本質を濁りのない目で見ることができるからかもしれないなと思う、人間は年を取るといろんな経験と共に欲とかそんなもので目が濁り自分にとって都合のいい物しか見えなくなっちゃうものなのかもしれない。
戦後7年、それから何十年か後に伝記の中に再び出てくる御二方、湯野川大尉の中では長い時が流れても大切な人として胸の中に残っているんだな。
上官と部下というよりも友や兄弟に近い想いを感じるのは私だけかなぁ。
兵学校出の士官と予備学生士官の確執は結構有名な話で、よその隊では兵学校出士官の予備学生士官への陰湿な暴力なんかもあってそういうのを読むたびに気分が悪くなってたのですが、神雷部隊ではそういうのはなかった?のかな。
林富士夫大尉が部下でもあり親友だったと話していた西尾光天中尉も予備学13期の方だったので、変な先入観を持たずに接すれば確執なんてものは起こらなかったのではないかと思う。
自分達兵学校出はこいつらとは違うんだというつまらない優越感を持ってる人間はどこにでもいますがこういうのって人間が狭量なんだろうなと。
威張るより相手を理解しようと考えて行動する人が本当に頭のいい人だと私は思うけど。

貴重な品を下さったM様、本当に有難うございました。







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頂き物  

中根中尉の御遺族のM様から、珍しい物と貴重な物を頂きました。

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鹿屋海軍サイダーです。
戦時中、搭乗員の方達が飲んでいたサイダーを復刻させたものだそうです。
我が家はサイダー好きで御当地サイダーを見つけたりすると買って飲んだりするので感激。
炭酸が少し強めな感じの美味しいサイダーでした。
勿論空き瓶は捨てません。

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こちらも復刻版、海軍タルト。
以前どこだったかのブログで見て美味しそうだなと思ってたので、〝おおっ、あのお菓子だ〟と。
サイダーもタルトもどうして私の欲しい物ばかり・・・M様不思議な力でも御持ちなのか・・・。
タルトと共に由来の書いた紙が同封されていたのですが、当時海軍鹿屋航空基地があった鹿児島県鹿屋市にある和菓子屋「富久屋(ふくや)」さんが、特攻隊員の為に作っていた当時「タルト」と呼ばれていたお菓子を再現したものだそうです。
当時貴重だった砂糖を使っていて、出撃前の特攻隊員に渡されていたそうです。
この世で最後に食べるお菓子・・・。
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スポンジ生地に餡子が挟んであります。
空の上でも片手で食べられるように細長く切ってパラフィン紙で包んでいた点も再現したそうです。
素朴な味の美味しいお菓子でした、今の時代には贅沢な材料を使ったケーキや和菓子が溢れていますが、あの頃の特攻隊員の方達にとってはとても贅沢な味のお菓子だったと思います。
もしかしたら中根中尉や大橋中尉(御二方共鹿屋の基地から出撃しています)も食べたのだろうか、だとしたらどんな思いでなどと考えながら食べていたら涙がぼろぼろ零れてきて、それを見た父はギョッとしてました、「このお菓子が美味しすぎるねん」と泣きながら言ういい年した娘の姿はちょっとしたホラーに違いないと今では思う、驚かせて申し訳なかったとも・・・
このお菓子はこの先もずっと作り続けてもらいたいなと思う。
タルトを食べて由来を知った人はただ美味しいなだけじゃなくきっと何かを感じ取ってくれると思うから。

その②へ。

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中根久喜中尉のこと  ①  

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大正10年7月24日茨城県行方郡要村(行方市)で生まれる。
昭和16年4月日本大学専門部工科に入学。
昭和18年9月海軍第13期飛行専修予備学生試験(第三部 前期)合格
        日本大学卒業
      9月~12月  土浦海軍航空隊入隊(第5分隊) 基礎教程
昭和19年1月~5月孝雄海軍航空隊(台湾)練習機教程
      6月~9月台湾海軍航空隊 爆撃機操縦専修実用機教程(8月中旬に桜花搭乗員の募集が行われ一次募集に志願)
      10月第721海軍航空隊(通称神雷部隊)に配属 桜花隊として訓練開始
昭和20年3月桜花隊の桜花攻撃と爆装零戦攻撃の二戦法採用による再編により、神雷爆戦隊(建武隊)に転換
      4月14日神風特別攻撃隊神雷部隊第六建武隊隊長として特攻出撃、戦死(享年23歳)

中根中尉について残されてる話はどれをとってもこの人心の温かい人だなと思うようなものばかりです。
上官である湯野川大尉の為に冷たい川に入って蜆を採った話、出撃近い戦友の結婚式に立ち会う為に脱柵(規律違反です)して寒い中自転車で走った話、基地近くに住んでいた子供たちに分け隔てなくお菓子をあげたり訓練の様子を見せてあげたり。
この人の真心はこの人が亡くなった後もちゃんと関わった人の心の中で生き続けているのだと思う。
死が近付いてくる日常の中でどうして人に優しくできるのか、私が23歳の時は本当に世間知らずの馬鹿でした(今もさほど変わらないような・・・)。
もしも自分だったら死ぬという事生きるという事、諦めでもなく覚悟でもなく自分の心と折り合いをつけて征くという感じかもしれないと思う、諦めは悪いし覚悟なんてものはとてもできないだろうと思うしそんなことをいろいろ思い悩む日々の中でとてもじゃないですが人に優しくなんかできないと思う…そういう人でありたいとは思うけど実際はねぇ、自分で自分の事は一番よく解ってるだけに。

疑問や納得できないことは上官にでもきっちり質問したりするところなんかもよその分隊長よりも厳しいと言われた湯野川大尉に好ましいと思われる部分だったのかもと思ったりする。

上に書いてある中根中尉の略歴ではありますが文字にしてみると、すごく短期間に搭乗員としての育成教程を受けてるのだなと。通常は一人前と言われるまでには3~4年かかると何かの本で読んだ記憶があるのですが、それをこれだけの期間で一体どれだけの努力をしたのだろうと思います。
兵学校出身の士官の中には自分達は何年もかかって少尉になったのに、予備学生は短期で少尉になるからムカつくという人もいたようですが、そこそこ時間をかけて教わるのと短期で詰め込み教育されるのとではどっちがしんどいと思うねんと私は思いますが。

桜花の搭乗員募集ですが長男と妻帯者は除外されるはずなのに何故中根中尉は志願したのか。
この方長男です、下は妹さんばかりで男兄弟はいません。
私はずっと男兄弟がいると思ってました。
航空隊の方では家庭のことなどいちいち調べていないのか?それとも本人の意思が固かったのか・・・。
将来を誓った方もいたようですし(昭和20年3月10日の東京大空襲で亡くなってる?)、どうしてだろうと思って。
今と当時では考え方も違うだろうし(男と女という違いも)、他人が他人の心を推し量ろうとするのがそもそも難しいことだったりするのでこれについては御本人の口で語ってもらうしかないことなので今となってはもう永遠に紐解くことができない事だったりするのですが。
ただ婚約者が亡くなってしまったことについては「もう何も思い残すことはなくなりました」と湯野川大尉に話されてるので、婚約者が亡くなるまでは思い残す事の一つであり心が揺れたりもしていたのかと。

略歴ではありますが、今回中根中尉の生年月日までここに書くことができたのは中尉の御遺族であるM様の御厚意があったからです。
70年以上前に亡くなった方の事ですから全くの他人であり、関係者に知り合いでもいない限り素人が調べるには難しいしせいぜい手に入る書籍に載ってる情報のみでおしまいになってしまうのですが、2月に筑波海軍航空隊記念館に行った事をここに書いたことがきっかけでM様から御連絡をいただきM様が作られた冊子と中尉が遺された遺品目録のDVDを戴きました。
送っていただいた物を手にした時の気持ちを文字にすると・・・ミュージカルじゃないけど歌って踊るくらい
先日、御電話で話す機会があってその時に「湯野川大尉は本に載ったりして有名な方だけど、どうして中根や大橋中尉なんだろうと思って」とおっしゃられて、正直舞い上がってその時何と答えたのか全く記憶がなく・・・。
今も考えてるのですが、上手く説明できない感じというか・・・この人好きだなという感覚みたいなものというか。
自分がこういう風になりたいと思う人は型破りでどこか押しが強い人なんですが、人として好きになるのは心が温かく優しい人というのが自分の中にはあって多分それだと思います。
湯野川大尉はよその分隊の隊長と違い厳しくてそれで敬遠している部下も中にはいたようで・・・本当は厳しさの中に温かさのある方だったようですが(自分だけに甘くて他人に厳しいなんてふざけた人間よりはいいと思いますが)。
そういう部分もちゃんと解って分隊士としてサポートしてくれる中根久喜中尉や大橋進中尉を湯野川大尉も大切に思ってたんだろうなと思います。
だから「特攻」という湯野川大尉の伝記を読んだときに出てきた中根中尉や大橋中尉が私の心に残ってこの方達の事が知りたいということに繋がってるのだと。

今日は中根中尉の誕生日です。
御存命なら96歳なんですね。
23歳のまま永遠に歳を取らない中根中尉ですが、御両親は亡くなるまで亡い子の歳を数え続けたのではないでしょうか。






      


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終戦記念日  

今日は71回目の終戦記念日です。
今年は6月に靖国神社に行ってきたので今までの終戦記念日よりもいろいろ考えた。
遊就館では昨年の戦後70年、遺族から英霊の方々に手紙を書くという企画を立ち上げてそのコーナーも見たのですが、英霊の方々が遺された遺書も悲しいものでしたが戦後遺族の方々が乗り越えてきた「苦難」も文字にすれば漢字2文字ですがそれは厳しく辛いものだったかが書かれた手紙から感じられました。
お父さんが生きていてくれたら、兄弟が生きていてくれたら、夫が生きていてくれたら・・・そう思い続けた70年、でもその思いは生き続ける限り心から消える事はないだろうと。
たくさんの遺品や写真を見て感じたのは、ただ悲しいな可哀想だなだけではなく戦後70年が過ぎて年を重ねる度に確実に戦争を知っている人は少なくなっていきいずれは知らない人ばかりになる、そうなったら日本はどうなるんだろう・・・この先100年後?もっと後の遊就館に自分の甥の子やその孫(私には子供がいないので)の写真や遺書が展示されてるような事になってたら・・・想像したらゾッとした。
絶対に有得ない妄想やんと笑い飛ばせれば気も楽なんですけど、ネガティブな私にはそれが出来なくてそれは暗い気持ちになったのでした。
馬鹿なおばさんの妄想で済んでくれればいけど、御近所の国は人の言葉を理解できない猿?(猿に失礼か・・・)みたいなのが多いので不安は不安です。
日本は仕掛けなくても相手が仕掛けてくるという可能性は0ではないでしょう?

去年は70年だったからかいろんな番組をやってたけど、今年はほぼなし。
オリンピックでメダルやらスマップが解散やら・・・とりあえず日本は今日も平和です。

あの時、戦ってくれた方々が望んだ平和な国に日本はなってるでしょうか・・・命と引き換えに護って良かったと思ってもらえるような日本になってるでしょうか・・・。

「無知は無理解を生み 無理解は憎悪を生む そして憎悪こそは人類相克の悲劇を生む 無知から生まれる憎しみの連鎖を断ち切らねばならぬ これこそ「ノーモア・パールハーバー」の道である」
この言葉は今日NHKで放映された「ふたりの贖罪」というドキュメント番組の登場人物、淵田美津雄さんが残した言葉です。
淵田さんは真珠湾攻撃の戦闘機隊の総指揮官だった人です。
戦後、キリスト教の伝道師になったそうで。
人間人を憎まないなんてことはまずないと思うし、この感情をなくしてしまうことなんてまず無理だと思う・・・なくすことができたらまず戦争なんて起こらないし。
そんなことを考えたら、人類の平和なんてまず夢のまた夢・・・。
人を憎みたくはないけれど、某国の議員が竹島に上陸して抗議した日本に対して「無礼」だの何だのとほざいた言ったニュースを見ては「黙れ、出来損ないの頭の悪い生き物が!海へ蹴り落すぞ!」などと思ってしまう私・・・人を憎まず理解し許すという行為のなんと難しいことよ・・・。



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