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みおや思ひて涙流るる 中根久喜中尉のこと ②  

中根久喜中尉のこと①はこちら
①を書いてからも中尉について少し知った事などもあり今日は②ということで。
中尉が遺された遺品アルバムにはあの頃あの閉塞的な時代の中で従軍記者達が撮ったプロパガンダ臭漂う物とは違う精一杯生きていた素顔の青年達が写っていています。
その中で中尉がお母さんを撮った写真がありました。
場所は靖国神社、一枚の写真の横には中尉の字で〝やさしい母でした〟もう1枚には詠が〝まだ遂げぬ使命思へばたらちねのみおや思いて涙流るる〟。
特攻に志願して生還は絶対に期さない覚悟を決めながらも親を思って揺れる心の内が詠の中から見て取れます。
詠の中のみおやとは祖母や母を指す言葉だそうで中尉がお母さんを思って詠んだもの。
子が亡くなったら男親も女親も悲しみは同じだとは思うけど、あの頃は今の時代みたいに女が選べる人生の選択肢は多くはなく大抵は子を育て家を守るのが女性の生き方。
それだけに子供の成長だけが生きる糧で人生の全てみたいなところがあってそれだけに残して先に逝く子の思いというか葛藤は相当なものだと思います。
中尉の戦死後アルバムを見たお母さんは息子の字で書かれた〝やさしい母でした〟と詠をどんな気持ちで読んだのか・・・。
中根中尉以外に男子はいなかったので御両親が息子にかける思いは相当なものだったと思います。
中根家は農家で長男である中尉は後を継いで農業をということになるのですが、運動神経も頭も良かったのでお父さんは中尉を大学に進学させたそうです。
当時は大学進学ともなると親の経済的負担は相当なもの、それを中尉も解っていてお父さんに感謝の気持ちを持っていたようです、こんな時代とはいえ特攻に志願してしまった申し訳なさもあったのかもしれませんが。
軍隊に入って生活は非常に厳しく馴れても辛いと感じる日々の中で「誰もが通る道」とお父さんが言った言葉通り頑張り抜くとお姉さんへの手紙に書いていた中尉。
男親は強く厳しくという時代だったとはいえお父さんの胸中も複雑だったと思います。
両親の子への願いも期待も全て根こそぎ奪う戦争、子を失った瞬間から始まる喪失感と悲しみは生涯癒える事はない。
中尉のお母さんは遺品箱の中に中尉が子供の頃に描いた絵も一緒に入れていました。
私の姉や妹も我が子が描いた絵などを大切に残しています、いつだったか「そんなん置いといてどうすんの?」と聞いた私に「大人になってから本人らに見せたり将来結婚したりしたら嫁さんや孫に見せたりするのもええかなぁって思って」と。
もしかしたら中尉のお母さんもそんなこと思って残したりしてたのかと思ったり、私は結婚してないから子供も育てたことがないだけど母親である姉や妹を通してもしかしたらと中尉のお母さんの事を考えたりする。
今日は中根中尉のお誕生日でおめでとうございますな日であるとともにこの世に産み出してくれたお母さんに感謝する日でもあります。
中根中尉のお母さん貴女が産み育てた息子さんは亡くなってからも人に生きる事の大切さを教える力を持った立派な人です。
中根中尉のお父さん貴方の息子さんは良い男です

「人の世に生れて死を厭うことは今昔変わりありません。
故に万人が長寿を願い、いろいろの昔話しを今日まで残しています。
けれども予期せざる生は、予期せずして死するのが当然です。
ですから若冠25歳を以て戦死しても決して驚いてはなりません。
悲しんではなりません。
例え私が敵の艦諸共に砕けなくても私の運命はその時に止まっているのです。
父上にはそのことが充分に解って戴けると思いますが、お母さん 優しいお母さんでした。
ある時は、私の寝顔に夜具をかけてくださいました。
久喜はあれほどに可愛がられ、何の報もせず散るのが母上に済まなく思います。
しかし私の胸の奥底には大きな願いがあるのです。
大義に生きることです。
お母さん決して悲しんではくださるな。
今母上が悲しんでいるように、その悲しみに打ち耐えて強く生きる一億の母のあることを思い起こして下さい。
一億の悲しみは一億の怒りとなって強く逞しく宿敵破砕の泉とならねばなりません。
至らぬ私でさえ軍隊生活をしているうちに死生観の輪郭を知り得ました。
そして母上が男の子を大君に捧げた光栄を思う日こそ私は本当に幸福だと思います。
淋しい日があったら、夜空の星の世界を御覧なさい。雄大な宇宙を眺めたらきっとふっ飛んでしまいますよ。
相談相手がなかったら、猪田さんの御母さんとお話しなさい。
母上がいつも云われるように母子共やさしい御方ですからお母の心も慰むることでせう。
久喜の心は晴れ、身を大君に捧げ、桜咲く靖国に帰る日を楽しく思います。
あああの桜、萬朶と咲くあの桜が私帰るその肩に降り注ぐのです。
ふみし日の よとせも今ぞ 去りならむ 永久に栄ゆる 桜花美は志 
                                          久喜拝 
母上様」
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category: 大東亜戦争

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いつか・・・  

今日は大橋進中尉の御命日です。
先日、中根中尉の御遺族のM様が中根中尉の遺品アルバムの写真を検証していたところ大橋中尉が写っていましたよとLINEで送って下さいました。
〝おおっ、これは間違いなく大橋中尉!!〟もう出てこないかなと思ってたので嬉しくて口元が緩みっぱなし、知らない人が見たら変なオバさんだよ・・・。
ディスクのアルバムを確認してみたら同じページに2枚貼ってあるうちの1枚でした。
もう1枚の写真を確認してみたらそちらにも大橋中尉だと思う人が写ってました。
どちらを先に撮ったのかは判りませんが場所も同じなので多分間違いないと思います。
撮った状況が想像できるようないい写真です。
中根中尉や大橋中尉の事を調べ始めるまでは私にとって特攻隊員の方達は尊い存在でどこか遠い存在でもあったのですが、今では身近な存在に感じられるような気がしています。
その心意気は尊く、今を生きる私達には持ち得ないものではありますけど。
中根中尉のお墓参りは昨年実現しましたが、大橋中尉のお墓参りもいつか実現することを願いつつ御冥福をお祈り致します。

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御遺族の戦後  

昨年10月に中根中尉の墓参で茨城に行ったときM様から中根中尉の軍人履歴原票をまとめた冊子を頂きました。
現物は少し見づらい部分もあるのですが、それを丁寧に解り易く清書して読みやすくしてくださってたのですごく有り難かったです。
軍人履歴の請求は3親等以内の親族でないとできないそうで、今回中根中尉のお姉さんの娘Y子さんがお骨折りくださったとのこと。
M様とT様は墓参した次の日にY子さんのお宅を訪ね、後日その時に撮った画像を送って下さいました。
そこには、中根中尉がお姉さんに出した葉書と遺書が。
葉書には近況報告が書かれていましたが、遺書には自分亡き後は自分に代わって(両親の事だと思います)力添えになって下さい、姪のY子さんの成長を祈っていますと書かれていました。
中根中尉はY子さんを抱いてあやしたり大変可愛がっていたそうです(この気持ちはすごく解ります、私も姉の子は今でも可愛い、甥も今では3人の子持ち30過ぎのおっさんですが)。
可愛い姪が成長する姿見たかっただろうなと。
嫁いでいるお姉さんが立場的に不自由なのを理解した上で(今と違ってお嫁さんがマメに実家に帰省できる時代ではなかったと思われます)残していく家族を託す思いというものは如何許りかと。
だったら何で志願したんでしょう?という疑問が湧いてそれはそれで堂々巡りなんですが、これって戦後生まれで生まれた時から平和な世の中のぬるま湯に浸かって生きてきた私には何となく想像はできるけどこれだという答えは多分一生出せない気がするのです。
人が人の気持ちを推し量るのは、ましてや生きていた時代が全く違う人のとなると難しい。
特攻は志願か命令かどっちなんだと言われますが答えはどっちもだと思います。
中根中尉の場合は志願ですが、妻帯者、長男は除外という事だったので中根中尉は志願しなくても問題はなかったはず、なんですけどね・・・。
でも、何か長男だから志願しなくていいよとか言われて、だったらしませんとかそういうのを潔しとしない真っ直ぐさというか潔癖さというかそういうものを持ってる方だったような気がします。
それと兵学校出の軍人を職業とする人達とは違う、予備学生士官という彼等なりの矜持と意地のようなものもあったのかもしれない。

74年前の今日、中根中尉は出撃戦死なさいました。
戦死後、仏壇に供えた手紙と遺影に手を合わせて供養なさってきたお姉さん、今は娘さんのY子さんが、M様、T様も慰霊祭に参列なさったりと時代は昭和、平成、令和と移り変わっても御遺族の本当の意味での戦後は来ないそんな気がしています。

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茨城へ行ってきました  

8月の中旬頃に中根久喜中尉の御遺族M様から中根中尉のお墓参りに誘っていただき「行きますっ!!」と即答、17日から茨城へ向かって夜行バスで出発。
いつかお墓参りできたらなとずっと思っていたのですが、中尉のお墓がある茨城県行方市は少し交通が不便なところのようでそうなるとレンタカーを借りてとなるわけですが私運転免許持ってないし・・・取りに行くかと思い始め取ったところで初心者が初めての土地でレンタカーって有り得ないしそこそこ運転に自信が持てるようになるまでとなれば何と気の長い話なんだろうかと・・・
そんな時に有り難いお話を頂いて即答してしまったのでした。

18日朝、渋滞で20分位の遅れで東京駅に到着、待ち合わせまで時間があったのでパパッと化粧直して靖国神社まで。
ここまで来て素通りというのも何か自分の気持ちがスッキリしないので。
いつもは観光客が多いのですが、この日は喪服ではないけど黒っぽい服装をした団体さんなんかが多くて(拝殿の中も)、何だろうと思ってたら秋季例大祭でした(帰宅して確認)。
遊就館も見学したかったけど今日は時間がないので参拝だけ済ませて、おみくじひいて元来た道を引き返しました。
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待ち合わせの東京駅八重洲南口に少し早めに到着。
今回、私がお供させていただくのは鹿児島からのM様、M様の従兄さん(苗字が同じM様なのでここからは名前の頭文字T様で)です。
T様の奥様が中根中尉の姪御さんになります。
T様が車を出して下さり、茨城まで。
途中のサービスエリアで昼食を摂った後、一路茨城県行方市へ。

途中、茨城空港へ。
茨城空港は旧海軍百里原基地だったところで神雷部隊が編制された場所です、一ヶ月程で神之池飛行場に移転したそうですが。桜花の搭乗員は練度の高い人ばかりが集められたそうで下士官で飛行時間1000時間前後、予備士官でも300時間以上はあったそうです。
下士官の人達はともかく予備士官の人達はあまり練度は高くなかったと思っていたのでちょっと意外な気がしました(失礼しました)。
今は自衛隊の百里基地とお隣同士で練習機が飛んでました、凄い音にビックリ

中根中尉のお墓は御実家の近くにありました。
お寺の敷地内にあるお墓だと思っていたのですが、地域の共同墓地でした。
場所を聞いたところで初めてではまずすぐに辿り着くのは難しいと思いました、特に方向音痴の私では。
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いつかお参りしたいと思っていた中根中尉のお墓。
立派なお墓です。
中根家のお墓は平成12年に再建されましたが、隣に建つ中根中尉の慰霊碑は昭和21年4月14日中尉の命日に合わせて妹の和子さんが建立されたそうです(中根家は男子は中尉御一人だったので末の妹、和子さんが家を継がれました)。
慰霊碑の側面上部には中尉の戒名と辞世の句が(辞世の句は崩した字なので読めず)、下部には碑文が彫られていました。
中根中尉に代わって中根家を継いだ和子さんの兄を想う気持ちが感じられました。
花忘れてきた事後悔・・・何でこううっかりしてるんだろう
特攻隊員に遺骨はありません、M様は遺髪か爪がお墓に納められてるのではないかとおっしゃっていました。
遺骨はなくても魂は故郷とご家族の側に戻ってきてると思います。
中尉には初めましての御挨拶と御縁を結んでいただいた御礼を言いました。


お墓参りを終えてから中尉の御実家へ。
今は和子さんの息子さん御夫妻がお家を継いで守っておられます。
御実家の御仏壇にも手を合わせる事ができて、中根中尉の事を知った頃の私には想像もできない展開・・・。
この日は中尉の甥御さん以外の家族の方は御留守でそんな時に突然お邪魔してしまったのですが快く迎えて下さいました。
甥御さんは中根中尉に似てらっしゃいましたよ、中尉が生きて年齢を重ねたらこういう感じになっていたかもと思うくらいに。
中尉は運動神経も頭も良かったそうで、本来なら農家の長男なわけだから農業をとなるわけですがお父さんは農業以外の道を進ませようと大学に行かせたのだと甥御さんは話して下さいました。
あの頃は今と違って大学まで行かせるのは親の負担も相当大きかった事と思います。
「神雷部隊記」の中で『(中根)中尉は苦労を重ねつつ彼を育ててくれた父親』という一文があり、私は子育ては父親だけがするわけじゃないからここは両親と書くべきではないのかと思ったのですが、この文は今日甥御さんが話してくれた事を指しているのではないかと思いました。
甥御さんが話して下さった事は御身内の方だけが知ってる貴重な話でした。
遺品箱が見つかった納屋も見せてもらいました、家を改築した時に移動させてそのままになっていたようで先に遺品箱が後日近くの桐箪笥の中から軍服が出てきたそうです。
刀(腰に吊るす短剣だと思います)もあったそうですがそれだけはずっと前に白鴎会(予備学生遺族会)に寄贈してしまったとのこと。錆びて鞘から抜けなくなっていたそうです。
遺品箱の中には中根中尉が御家族に遺したアルバムと子供の頃に描いた絵が納められていました。
長い間、開けられることなく眠っていた遺品箱ですが、もし興味を持った誰かが早くに開けてしまっていたら形見分けなんかで中身が散逸してしまっていたのではないかなぁとM様とT様がおっしゃってました。
甥御さんとは握手でお別れしましたが、大きくて温かい手でした。
御実家は改築されていましたが、建ってる場所はそのままなので、子供の頃の中根中尉が庭で走り回って遊んだりしたんだろうなとかいろいろ想像してしまいました。
のどかな風景は私が住んでる所とあまり変わりなく、ほっとするような場所でした。
中根中尉が育った故郷は私にとっても好きな場所になりました。
それと御実家では犬が3頭いたのですが可愛かったぁ、外に居た子は知らない私を見て一応吠えはしてるんですけどしっぽを見たらフルフル揺れてました
室内にいたのはチワワ2頭、1頭は大人しい子でしたがもう1頭はすごく積極的な子で寄ってきて撫でてと手で催促するのがもう可愛い可愛い
猫もいいけど犬もいいなと思った日でもありました。

中尉の御実家を後にして、次は筑波海軍航空隊記念館へ。
今年の6月にリニューアルしていて以前使われていた建物の隣に新しくなった記念館が建ってました。
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こちらが以前使われていた建物です。(2017年2月撮影)
今はこの建物右側に新しい記念館が建ってます。
以前の記念館は筑波海軍航空隊司令部庁舎が使われていたのですが今は見学できません。
補修工事がなされた後にまた見学できるようになるそうです。
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新しい記念館。

館長の金澤様とM様T様がお知り合いで、金澤様はこの日用があって記念館を不在にしていたのですが戻ってきて下さり 筑波海軍航空隊司令部庁舎の中を案内していただきました。
以前2階までは見学できたのですが、今回は3階も見せていただきました。
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この電灯、当時の物でスイッチ入れると今でも点くんです
「神雷部隊記」を読んで、大橋進中尉もここ筑波にいたことがあると知りました。
庁舎の中歩いた?とかきれいな桜は見ただろうかとかいろいろ思いながら見学させていただきました。

航空機の模型がたくさん飾ってある部屋も見せていただいたのですが、男性陣は結構盛り上がってましたが、私は零戦と彗星が同じに見えるというとんでもない人間なので・・・
でも唯一、紫電改だけは判る。
部屋の入口に近いところに紫電改がいっぱいで見ていたら・・・
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菅野直大尉機発見!!
それにしても精巧にできてる模型だわ・・・。
新館には大和の模型もありましたが大和ミュージアムの大和よりも精巧に作られているそうです、詳しくない私には細かいところまでよくできてるなとしか感想は言えないのですが・・・興味のある方は是非。

新展示として上映される「特攻のはじまり」という作品を見せていただいたのですが、大人にも子供にも解りやすく作られていて良い作品だと思いました。
女性が制作なさったそうで男性とは違う視点から作られていて、確かに当時は軍神と言われた彼等ですが、今の若者と何ら変わらない姿で笑って仲間とふざけあったりするそういう日常があったのだと思うと身近に感じると思うし、来館者の方々がそこから戦争や特攻の事を考えたりする取っ掛かりになってくれたらいいなと思う。
映像の中では中根中尉の遺品アルバムの写真も多く使われていました。
「命を武器とみなし、生きる選択肢を失くした若者のことを忘れないでください。」という言葉がずっと頭の中でグルグル。
見終わってから「どうでした?」と聞かれ「良かったです」と一言しか言えなかったのですが正直泣きそうでした、おばさんの涙腺には結構な攻撃力を持つ作品でした。

記念館を後にして館長さんが予約して下さったお店で夕食を。
kitchin晴人(ハレジン)というお店だったのですが、栗を使ったお料理がとても美味しかったです。
食事しながら館長さん、M様、T様が戦争史跡についての事なんかを話されてるのを聞きながら、こういう話は普段の自分の日常ではまずないので新鮮でした。
一人旅では絶対に経験できないことなので。
私が乗る電車の時間があったので話を途中で切り上げた感があって申し訳なかったです。
M様、T様とはここでお別れです。
初めてお会いしたのに友部駅まで館長さんに送っていただき有り難いやら申し訳ないやら。
館長さんには貴重な御時間を割いていただき有難うございました。
M様、T様には本当に何から何まで御世話になって楽しい時間を過ごす事ができました、有難うございました。

電車の待ち時間があったので館長さんが教えて下さったカフェでお茶でもと思ってたら、会社のお土産買ってない事に気付く。
東京駅は広いからあまり歩き回って買い物はしたくないし、友部駅のコンビニっぽい店で選んで買う事に。
とにかく人数の多い職場なので質より量で・・・ちょうどいいのがあったので購入。
父にはそぼろ納豆、前回来た時もここの店でそぼろ納豆買ったのですが美味しかったので。

22時東京駅発の夜行バスで帰路に。

20年位前ならまず初対面の人と一日一緒に過ごすなど有り得ない私、もう酷い人見知りで何年も文通していた相手とさえ会えなかったという人間で・・・
姉や妹は私とは正反対で誰とでもすぐ友人になるという人だったので、こういう自分が嫌いだったんですけど、年齢も経て多少図太さも加わったのもあるとは思うのですが、今回みたいに不安よりもワクワクが上回る出来事は今まで生きてきた中では初めてだったので、親や妹も驚いていましたがそれ以上に自分が一番驚いていたかもしれない。
初めてを経験するのに年齢は関係ないのだなと今になって恥ずかしながら気付いた次第

今回、声を掛けて下さったM様有難うございました。
御縁を結んでくれた中根中尉、有難うございました。

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靖国神社の桜みくじ。
今回ずっと欲しかった鳩が出ました、色も好きな紫
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おみくじは中吉。
特に悪い事は書いてなかったけれども、売買が良くない・・・私にとっては大きな買い物をしようかなと思ってたところだったので・・・

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17日の夕食。
大阪駅に着いた時間が結構遅かったので、あまりあれこれ悩んでる時間もないしでとんかつ屋に。
ビーフカツとヒレとんかつのセットを注文したのですが出てきてビックリ!
メニューで見た大きさよりも一回り?いや、もっと小さいかも・・・思わず笑ってしまった。
箸袋に店名書いてあったけどさすがにそのまま載せられず・・・

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今度こそは  

73年前の今日、中根久喜中尉は鹿児島の鹿屋基地から特攻出撃し戦死しました。
中根中尉だけでなく自分の人生を諦めざるを得なかったあの頃の若者たち。
サザンオールスターズの「蛍」という歌なんかに永遠に眠れなんて歌詞があったりましますが、私は永遠になんて眠らなくてもいいよと思う。
戦い疲れた魂を少し休めたら後はサッと生まれ変わって今度こそ自分のやりたかった事や夢を叶えて欲しいと思うから。

中根中尉についてはまだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、思いが強すぎると何から書けばいいのか判らなくなるというか・・・。
本を読んだりして新しい情報発見!ということもあったりしたのですが。
遺品アルバムの中の隊員達とふざけあい笑う少年のような顔と、物事を冷静に分析し上官に質問する怜悧な顔、知れば知るほど魅力的な人です。

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