大好き

好きなもの、日常の事などいろいろと・・・

中根久喜中尉のこと  ①  

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大正10年7月24日茨城県行方郡要村(行方市)で生まれる。
昭和16年4月日本大学専門部工科に入学。
昭和18年9月海軍第13期飛行専修予備学生試験(第三部 前期)合格
        日本大学卒業
      9月~12月  土浦海軍航空隊入隊(第5分隊) 基礎教程
昭和19年1月~5月孝雄海軍航空隊(台湾)練習機教程
      6月~9月台湾海軍航空隊 爆撃機操縦専修実用機教程(8月中旬に桜花搭乗員の募集が行われ一次募集に志願)
      10月第721海軍航空隊(通称神雷部隊)に配属 桜花隊として訓練開始
昭和20年3月桜花隊の桜花攻撃と爆装零戦攻撃の二戦法採用による再編により、神雷爆戦隊(建武隊)に転換
      4月14日神風特別攻撃隊神雷部隊第六建武隊隊長として特攻出撃、戦死(享年23歳)

中根中尉について残されてる話はどれをとってもこの人心の温かい人だなと思うようなものばかりです。
上官である湯野川大尉の為に冷たい川に入って蜆を採った話、出撃近い戦友の結婚式に立ち会う為に脱柵(規律違反です)して寒い中自転車で走った話、基地近くに住んでいた子供たちに分け隔てなくお菓子をあげたり訓練の様子を見せてあげたり。
この人の真心はこの人が亡くなった後もちゃんと関わった人の心の中で生き続けているのだと思う。
死が近付いてくる日常の中でどうして人に優しくできるのか、私が23歳の時は本当に世間知らずの馬鹿でした(今もさほど変わらないような・・・)。
もしも自分だったら死ぬという事生きるという事、諦めでもなく覚悟でもなく自分の心と折り合いをつけて征くという感じかもしれないと思う、諦めは悪いし覚悟なんてものはとてもできないだろうと思うしそんなことをいろいろ思い悩む日々の中でとてもじゃないですが人に優しくなんかできないと思う…そういう人でありたいとは思うけど実際はねぇ、自分で自分の事は一番よく解ってるだけに。

疑問や納得できないことは上官にでもきっちり質問したりするところなんかもよその分隊長よりも厳しいと言われた湯野川大尉に好ましいと思われる部分だったのかもと思ったりする。

上に書いてある中根中尉の略歴ではありますが文字にしてみると、すごく短期間に搭乗員としての育成教程を受けてるのだなと。通常は一人前と言われるまでには3~4年かかると何かの本で読んだ記憶があるのですが、それをこれだけの期間で一体どれだけの努力をしたのだろうと思います。
兵学校出身の士官の中には自分達は何年もかかって少尉になったのに、予備学生は短期で少尉になるからムカつくという人もいたようですが、そこそこ時間をかけて教わるのと短期で詰め込み教育されるのとではどっちがしんどいと思うねんと私は思いますが。

桜花の搭乗員募集ですが長男と妻帯者は除外されるはずなのに何故中根中尉は志願したのか。
この方長男です、下は妹さんばかりで男兄弟はいません。
私はずっと男兄弟がいると思ってました。
航空隊の方では家庭のことなどいちいち調べていないのか?それとも本人の意思が固かったのか・・・。
将来を誓った方もいたようですし(昭和20年3月10日の東京大空襲で亡くなってる?)、どうしてだろうと思って。
今と当時では考え方も違うだろうし(男と女という違いも)、他人が他人の心を推し量ろうとするのがそもそも難しいことだったりするのでこれについては御本人の口で語ってもらうしかないことなので今となってはもう永遠に紐解くことができない事だったりするのですが。
ただ婚約者が亡くなってしまったことについては「もう何も思い残すことはなくなりました」と湯野川大尉に話されてるので、婚約者が亡くなるまでは思い残す事の一つであり心が揺れたりもしていたのかと。

略歴ではありますが、今回中根中尉の生年月日までここに書くことができたのは中尉の御遺族であるM様の御厚意があったからです。
70年以上前に亡くなった方の事ですから全くの他人であり、関係者に知り合いでもいない限り素人が調べるには難しいしせいぜい手に入る書籍に載ってる情報のみでおしまいになってしまうのですが、2月に筑波海軍航空隊記念館に行った事をここに書いたことがきっかけでM様から御連絡をいただきM様が作られた冊子と中尉が遺された遺品目録のDVDを戴きました。
送っていただいた物を手にした時の気持ちを文字にすると・・・ミュージカルじゃないけど歌って踊るくらい
先日、御電話で話す機会があってその時に「湯野川大尉は本に載ったりして有名な方だけど、どうして中根や大橋中尉なんだろうと思って」とおっしゃられて、正直舞い上がってその時何と答えたのか全く記憶がなく・・・。
今も考えてるのですが、上手く説明できない感じというか・・・この人好きだなという感覚みたいなものというか。
自分がこういう風になりたいと思う人は型破りでどこか押しが強い人なんですが、人として好きになるのは心が温かく優しい人というのが自分の中にはあって多分それだと思います。
湯野川大尉はよその分隊の隊長と違い厳しくてそれで敬遠している部下も中にはいたようで・・・本当は厳しさの中に温かさのある方だったようですが(自分だけに甘くて他人に厳しいなんてふざけた人間よりはいいと思いますが)。
そういう部分もちゃんと解って分隊士としてサポートしてくれる中根中尉や大橋中尉を湯野川大尉も大切に思ってたんだろうなと思います。
だから「特攻」という湯野川大尉の伝記を読んだときに出てきた中根中尉や大橋中尉が私の心に残ってこの方達の事が知りたいということに繋がってるのだと。

今日は中根中尉の誕生日です。
御存命なら96歳なんですね。
23歳のまま永遠に歳を取らない中根中尉ですが、御両親は亡くなるまで亡い子の歳を数え続けたのではないでしょうか。






      


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終戦記念日  

今日は71回目の終戦記念日です。
今年は6月に靖国神社に行ってきたので今までの終戦記念日よりもいろいろ考えた。
遊就館では昨年の戦後70年、遺族から英霊の方々に手紙を書くという企画を立ち上げてそのコーナーも見たのですが、英霊の方々が遺された遺書も悲しいものでしたが戦後遺族の方々が乗り越えてきた「苦難」も文字にすれば漢字2文字ですがそれは厳しく辛いものだったかが書かれた手紙から感じられました。
お父さんが生きていてくれたら、兄弟が生きていてくれたら、夫が生きていてくれたら・・・そう思い続けた70年、でもその思いは生き続ける限り心から消える事はないだろうと。
たくさんの遺品や写真を見て感じたのは、ただ悲しいな可哀想だなだけではなく戦後70年が過ぎて年を重ねる度に確実に戦争を知っている人は少なくなっていきいずれは知らない人ばかりになる、そうなったら日本はどうなるんだろう・・・この先100年後?もっと後の遊就館に自分の甥の子やその孫(私には子供がいないので)の写真や遺書が展示されてるような事になってたら・・・想像したらゾッとした。
絶対に有得ない妄想やんと笑い飛ばせれば気も楽なんですけど、ネガティブな私にはそれが出来なくてそれは暗い気持ちになったのでした。
馬鹿なおばさんの妄想で済んでくれればいけど、御近所の国は人の言葉を理解できない猿?(猿に失礼か・・・)みたいなのが多いので不安は不安です。
日本は仕掛けなくても相手が仕掛けてくるという可能性は0ではないでしょう?

去年は70年だったからかいろんな番組をやってたけど、今年はほぼなし。
オリンピックでメダルやらスマップが解散やら・・・とりあえず日本は今日も平和です。

あの時、戦ってくれた方々が望んだ平和な国に日本はなってるでしょうか・・・命と引き換えに護って良かったと思ってもらえるような日本になってるでしょうか・・・。

「無知は無理解を生み 無理解は憎悪を生む そして憎悪こそは人類相克の悲劇を生む 無知から生まれる憎しみの連鎖を断ち切らねばならぬ これこそ「ノーモア・パールハーバー」の道である」
この言葉は今日NHKで放映された「ふたりの贖罪」というドキュメント番組の登場人物、淵田美津雄さんが残した言葉です。
淵田さんは真珠湾攻撃の戦闘機隊の総指揮官だった人です。
戦後、キリスト教の伝道師になったそうで。
人間人を憎まないなんてことはまずないと思うし、この感情をなくしてしまうことなんてまず無理だと思う・・・なくすことができたらまず戦争なんて起こらないし。
そんなことを考えたら、人類の平和なんてまず夢のまた夢・・・。
人を憎みたくはないけれど、某国の議員が竹島に上陸して抗議した日本に対して「無礼」だの何だのとほざいた言ったニュースを見ては「黙れ、出来損ないの頭の悪い生き物が!海へ蹴り落すぞ!」などと思ってしまう私・・・人を憎まず理解し許すという行為のなんと難しいことよ・・・。



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靖国神社 遊就館 覚書のようなもの  

今回遊就館で見たかったのは菅野大尉のお財布ですが、他にも展示されていて印象に残った遺品があったので感想を覚えてるうちに書き留めておこうかと。

無題227
石川一彦陸軍中尉(写真・左)
香川県出身。
昭和17年陸軍航空士官学校卒、少尉候補者第22期生として任官。
奥様のふさ江さんとは同郷で昭和18年3月、見合い結婚、ふさ江さんは21歳石川中尉は28歳でした。
「神様みたいに優しい人」だったとふさ江さんは語っています。

飛行教官で各地の飛行学校を転々としたそうです、赴任先への列車、公務の石川中尉は2等、奥さんは3等車と分かれましたが、石川中尉は駅に着くたびホームに降り、窓越しに妻の体調を気遣った。
泊まり込みの週番勤務の時は、忘れ物にかこつけて従卒に様子を見に来させた。
つましくも、幸せな暮らしだったようです。

昭和20年1月千葉・銚子飛行場へ転勤、奥さんは2人目の子を身篭っていたので石川中尉は「落ち着いたら呼び寄せるから」と単身で赴任したそうです。
新しい任務は特攻でした。
石川中尉は教官でしたが教え子達だけを特攻に出すのが耐えられなかったのか自ら志願して隊長として出撃することになったそうです。
亡くなる10日前父親に出した手紙には、

「(前略)明日から当分下志津及壬生に於て最后の腕を磨いて行く予定です。
ふさ江は子ども二人を抱え今後苦労多き事と存じますが、
今は総てを犠牲にして任務に邁進するのみです。
嫁として色々と行きとどかない処も多い事と存じますが小生の妻として
文太郎、文男ともに可愛がって面倒を見てやってください。
尚、御両親様には今迄何一つ孝行もできませず、誠に申し訳有りません。
母上様やふさ江には私が特攻隊長になったことは言わないほうが
いいと考えますゆえ、当分父上様の胸の中に置いてください。」

母親や妻の気持ちを考えて特攻隊長になった事を父にだけ知らせ口止めしています。
その事を夫の上官から知らされた奥さんは2月に産まれた次男を一目夫に見せようと会いに行ったそうです。
4月3日石川中尉は沖縄の米軍艦船攻撃のため特攻機で福岡・大刀洗基地へ移動中、山口県内で濃霧の山中に激突し殉職。
この日、奥さんは大刀洗近くの甘木駅まで来て駅舎で夜を明かしていた。
夫の死を知り、香川の石川中尉の実家に帰り着くまで、汽車の中、声を殺し、泣き続けたそう。
「体じゅうがとけ出したかと思うほど涙がだらだらあふれ出て、着物のひざがびしょびしょになった」と。
戦後は女手一つで子供2人を育てあげたそう、この頃は婚家に子供を置いて自分は実家に戻り再婚という道を取る人もいたようですが、ふさ江さんは再婚を考えた事もなかったそうです。
悲嘆や絶望(赤痢で命を落としかけたことも)で幾度となく亡くなった夫に助けを求めた、ふさ江さんの戦後でした。
「夫が生きた証し、夫との日々をかたちにとどめておきたい」と歌を詠み始めたそうで、

ひそと受くる公務扶助料(恩給)は 戦に果てたる夫の血のしたたりか

という歌を詠まれています、本当はお金なんかではなく夫を生かして返してくれと心の内では叫んでいたのではないかと思ったりする。 

その石川中尉が身につけていた手帳が遺品として展示されていました。
その手帳には赤ちゃんの写真が挟まれていて、手帳の開いたページの上に乗せられていました。
手帳には今も使われているかのように書かれた文字・・・そこに子供の写真、それがとても生々しい感じがして今でも忘れられません。
手帳に挟んで時折見て〝どうしてるだろうか、会いたい〟などと思っていたんだろうとその時の石川中尉の気持ちが手に取るように判って辛かったです。
私の母方の祖父も戦地で幼い母の写真を見ては会いたいと一人で泣いたそうです(写真の裏には祖父が母を思って書いた詠が書いてありました)。
その話を母から聞いていたので余計に石川中尉の事が心から離れなかったのかもしれません。

出撃前、石川中尉はふさ江さんに遺詠を残していました。

「ゆかしき心もて 銃後に備えよ 大和なでしこ 」

夫を亡くして59年目にふさ江さんが詠んだ返歌は

「なでしこよとわれに遺(のこ)して出で征きし 夫の心に添はむとおもふ 」

神様みたいに優しかった人とのたった2年間の結婚生活、その人を愛し続ける気持ちは色褪せることなく深く想いつづける気持ちに年月は関係ないのだなと思いました。



無題228
植村眞久海軍大尉
東京都出身
昭和18年9月第13期飛行予備学生
昭和19年10月26日 神風特別攻撃隊大和隊、第一隊々長として出撃
レイテ島東方海面の米機動部隊に特攻、散華(享年25歳)

「愛児への便り」
「素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。 素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。
 素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、 若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。
 お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ、 必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思びます。 生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。 またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、 御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。 必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。
 優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讃んで貰びなさい。
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ

追伸、
 素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。 だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。 」

私がこの手紙を初めて読んだのは、19、20歳の時でした。
大阪心斎橋大丸で「学徒出陣~ペンを銃に持ちかえて~」をテーマにした遺品展示が催事場であってそこで見ました。
大阪、十三の祖母に家へ遊びに行ってたのでそんなに遠くもなかったし回天の展示(本体か一部かどちらかだった)もあって、両親からの話でしか聞いたことがなくいまひとつどんなものか想像がつかなかったので見に行く事に、妹と一緒に行きました。
本当に軽い気持ちで行った事を後で後悔する事になるのですが・・・。
そこには勉強に使っていたノートや日記、日本画家をめざした学生が描いた鳳凰(と記憶している)の絵等が展示されていました。
鳳凰の絵がとても印象に残っています、鮮やかな色彩が美しい作品でした。
芸術の世界で生きて行くのは大変で名を残す程の画家になろうと思ったらそれなりに苦労はしたでしょうが、望まぬものに無理矢理夢を奪われるよりは苦労のし甲斐もあったのではないかと。
そんな中に植村大尉の愛児への手紙も展示されていました。
何気なく立ち止まって読み始めた手紙でしたが・・・そこから動けなくなってしまいました何故なら涙が止まらなくなってしまったから。
妹は判っていたので何も言わず待っててくれました。
私は父親っ子(今でこそ毎日一緒は辛いとこぼしてますが)だったので、この手紙から溢れ出る父親の愛情が痛いほどに理解できたからです。
この時は自分は幸せだ大好きな父と一緒に暮らせるのだからと思ったものです。


内地を出発する前夜、植村大尉は大村基地から東京の自宅に長距離電話をかけました。
妻に生後三ヶ月の娘・素子さんの声を聞かせてくれるよう頼みましたが、素子さんはにこにこ笑うだけで声を立てない。
植村大尉は「お尻をつねって泣かせてくれ」と頼みます、でも妻は笑っている娘にそれも出来ず、乳を含ませて飲み始めたところで
離すと泣き出したそうです。
植村大尉は電話越しに娘をあやし、やがて電話を代わった母親に「子供は本当に可愛いものですね。お母様たちのご恩を深く感じます」としみじみ語ったという。

娘の素子さんは父・植村大尉が散華してから22年目の昭和42年3月、父と同じ立教大学を卒業。
4月22日素子さんは靖國の社に鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。
舞い終わり友達から花束を受け取った素子さんは、「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語ったそうです。
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「桜変奏曲」を舞う素子さん。

娘の成長を植村大尉も喜んでいたと思いますが、生きて奥さんと共に娘の成長をそばで見守りたかったことと思います。

初めて植村大尉の手紙を読んだ時から長い年月を経てまた実物に遊就館で出合う事になりました。
再び出合ったことで、あの時に感じた気持ちを思い出せた、父も私もお互い歳とってくたびれてきて一緒に居る事がストレスになってきて、それでも親だから仕方ないかと思いつつ・・・それでも一緒に暮らせる事って有難い事なんだなと。
たまに一人で旅に出て一人って幸せ~ってガス抜きして、またいつもの日常に戻る、あの頃みたいに素直な心で幸せだと思えない自分もいるけどまぁそれなりに上手くやっていこうと思ったのでした。
そばで成長を見守ってくれた父、親孝行しないとね、ダメだよね。






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当事者だけが語れる真実  

会社にお土産を持って出勤。
東京まで一人で行ったと言ったら、みんなに驚かれ何故?と聞かれる。
一人旅をするようなタイプには見えないらしい。
「自分で予定を立てて自分の動きたいように動けるから」と言っても、みんなは不思議そう。
職場の人達もよく旅行するけど同僚同士や友人、姉妹と一人旅はしないという人ばかりだ。
一人、男性の同僚は一人旅をよくするらしく「気楽でええわな」と言ってたけど。
祖父母の兄弟が戦死して戦友会みたいなので靖国神社に行った事があるという同僚もいました。
可愛がってくれる古株のおばちゃんのNさんが「誘ってくれればよかったのに」と、それが困るから出発は内緒にしてたのですが。
以前「永遠の0」観に行って来たと話してましたが、ただ単に話題の映画だからだろうくらいの気でいました。
他にも大東亜戦争に興味があって一度は靖国神社へ行ってみたいという人が何人かいました。
普段そんな話はしないから意外な気がしました。
科長にも「瑞貴さん以外と行動的なんやな、特攻の知覧へは行った事ある?」「ないんですけど、いつか行きたい」などと話していたら、Nさんが「私の知人のお父さんが元特攻隊員で、天候不良で出撃が伸びてる間に終戦になって帰って来れたんよ。いろいろ話聞いたんやけど、あの頃慰安婦のところに行ったりしたいう話しも聞いて・・・でもお父さんは男の性的な欲求を満たす為やなくて慰安婦に母親を求めてたって話してくれた。出撃したらもう最期、二度と母親には会えない、慰安婦に抱きついて「お母さん!!」て泣いたって・・・そんな特攻隊員が自分だけじゃなくて他にも居たって。あの時代にはそうやって死んでいった特攻隊員がたくさん居たって。」
こういう話は私自身本なんかで読んだことはなく、当時者しか分からない真実なのだと思いました。
〝ここは職場だ泣くな泣くな〟と自分に言い聞かせたけれど出てくるものは抑えることができず・・・。
「特攻隊員が最期に帰りたいのはお母さんの胸です」と元特攻隊員の浜園重義さんがおっしゃってた言葉を思い出しました。
映画やドラマでは知ることの出来ない真実は重く、ただ切なく悲しいものでした。
「そのお父さんは今も元気にしてらっしゃるんですか?」とNさんに聞いたら「うん、元気にしてるよ」という事でした。
生き残るということはその当事者にとっては決してラッキーだと諸手を挙げて喜べることではないということ、確かにもう特攻に行かなくていいとホッする気持ちもあるようですがその後に襲ってくるのは自分だけが生き残ってしまったという罪悪感だそうです。
その罪悪感は生涯抱えて生きていかなければならず、それは生涯を終えてあの世で戦友に再会し「よく来たな待ってたぞ」と笑って迎えられた時にやっと降ろすことのできる重い重い荷物なのかもしれません。

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御冥福を御祈り致します  

元零戦搭乗員の原田要さんが亡くなったことを昨夜ネットニュースで知った。
99歳。
戦争経験者が亡くなっていっていずれは知らない人間ばかりの世の中が来る、そうなったらこの国はいったいどうなるんだろう。
戦後沈黙を守り続けた方達がそれを破っていろいろ話してくださる事ちゃんと心して聞いておかないといけないなと思う。

原田さんは気さくな方だったようで当時の話を聞きたいという人を拒まず望まれれば話をしたそうですが、その後は夜一晩中うなされていたとのこと。
昨年は戦後70年ということで取材が殺到しそれが原田さんの心身共に大きな負担をかけることになったようです。
それでも話そうとして下さったのは、やっぱり戦争を知る者が知らない者に語り継いでいかなければならないという強い思いがあってのことだと思うのです。
当時の話を知っている人が少なくなってしまった今、聞く方も語り継がなければという使命感もあるのでしょうが、相手の年齢を考えてもうちょっと配慮する事ができなかったのかなぁと思ったり。
原田さんと親しくしていた方のブログに「使命感に駆られた善意の馬鹿が人を殺すのだ」と書かれていましたが、言葉はきついけどその通りかもと。
話が聞きたいからと御本人や遺族の方でも連絡されたりする事によって古傷を抉られる思いをする人がいるのも確か。
話したいと思ってくださる方、話したくないと思い今も何も語らない方いろいろだけどこの人達は戦後も結構な苦労をしている方達が多い。
戦時中は兵隊さん兵隊さんと好意的だった人達が戦後は手の平を返したような態度をとり、そんな人達に酷い言葉を浴びせられたりして、必死に命を懸けて戦ったのに日本は負けてそれだけでも生も根も尽き果てたようになってるのに同じ日本人に失望させられもう何も話すまいと頑なに口を閉ざしてしまった。
私も母方の祖父に戦争中の話を聞かせてくれとせがんだ事があったけど「おじいちゃんは生意気やったからよう上官から殴られた」ということくらいしか話してくれなかった。
今考えると普通の世間話みたいに軽く話せるもんじゃなかったのだなと思う・・・子供って残酷だから何も考えずにいろいろ聞いちゃうんでね。
私たちは昭和20年8月15日が終戦と教わり、それを何の疑問も持たずにそうなのかと受け入れ生きてきた、でも戦争で戦友を亡くし、息子や愛する人を亡くした人達の終戦は自分自身が命を終えるその瞬間まで来ないのかもしれない。


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