大好き

好きなもの、日常の事などいろいろと・・・

今度こそは  

73年前の今日、中根久喜中尉は鹿児島の鹿屋基地から特攻出撃し戦死しました。
中根中尉だけでなく自分の人生を諦めざるを得なかったあの頃の若者たち。
サザンオールスターズの「蛍」という歌なんかに永遠に眠れなんて歌詞があったりましますが、私は永遠になんて眠らなくてもいいよと思う。
戦い疲れた魂を少し休めたら後はサッと生まれ変わって今度こそ自分のやりたかった事や夢を叶えて欲しいと思うから。

中根中尉についてはまだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、思いが強すぎると何から書けばいいのか判らなくなるというか・・・。
本を読んだりして新しい情報発見!ということもあったりしたのですが。
遺品アルバムの中の隊員達とふざけあい笑う少年のような顔と、物事を冷静に分析し上官に質問する怜悧な顔、知れば知るほど魅力的な人です。
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BBCドキュメンタリー「神風」  

平成7年4月出撃50周年の節目に当たり鹿屋市主催の特攻戦没者慰霊祭に参列した神雷部隊戦友会にイギリス国営放送BBCが同行取材をし戦後50年特集番組「カミカゼ」を制作、10月に英国内で放送されたものですが日本では未放送。
そのDVDを中根中尉の御遺族のM様が送って下さって観ることができました。
神雷部隊の関係者の方(士官、佐官)の証言や米軍兵士の証言で構成されてました。
日本側で証言してらしたのは湯野川大尉、林大尉、細川中尉、片岡中尉、中島中佐、あとは陸軍の小林公二少佐、三木忠直さん(桜花の設計者)、大田少尉(桜花の提案者)の息子さんでした。
湯野川大尉は当時も今も靖国神社が自分達にとってどういうものであるかという事を語っておられましたが、この方あまり自分の事は話されないなと思う。
兵学校同期の林大尉は積極的に正直に話されてて突然歌を歌い出したり(お上手です)するのですが全然タイプの違う二人.
三木さんは大田少尉から桜花について聞かされた時「そんな兵器は作れない」と拒否したそうですが「自分が乗って行きますから」と言われてと話されてましたが大田少尉一人乗って行けば一回こっきりで終わりなわけないじゃんと。
中島中佐が証言者の一人で出ていたのにはちょっと驚いた。
この人若い頃の写真でしか見たことなかったし、国内で放映されるドキュメンタリーに出てるのも見たことなかったのでどんな人なんだろうと思ってたけど・・・正直なところ良く言う人があまりいない理由がこのドキュメンタリーで解ったかも。
国内向けのドキュメンタリーでは出せないわこの人、当時の姿を知ってる人は相変わらずだなという印象なのかもしれないけど、そうでない遺族の方々の神経確実に逆撫でする人だわと。
御本人も海外の番組だから話を受けたのだろうけど。
他の方々の証言は生き残ったことでそれぞれ背負って生きてきたものの重さとか亡くなった人達への思いとか「自分が生きてる限り亡くなった戦友達も共に生き続けることができるから長生きしたい」というようなことを林大尉も話されてましたがそうやって生き続ける覚悟みたいなものを感じたりしたのですが、中島中佐に感じたのはこの人能天気なテンションで何喋ってんだろと。
当時の特攻隊員の心情なんて一番理解してそうにない人が心情について語っている状況・・・変。
部下もこの人には表面的なものしか見せなかったのだと思いますが、それにしても理解しなさすぎだろと思う。
自分は禅というものを少しやっていたからと話していて、そのせいか独特な死生観をお持ちの方のようで・・・。
こういう考え方は個人の技量が全てとも言える戦闘機搭乗員をやってる間はいいんだろうけれど、ある意味怖いもん知らずで。
禅だか何だか知らんけど自分の死生観押し付けて、喜び勇んで特攻に行ったなんて思われて後々私が話すのが本当の特攻隊員の姿ですなんて言われたら、あの頃自分が死んでいくことの意味、その日がくるまで生きることの意味を日々考え続けていた人の心情はどうなんの?私だったらあんたにだけは絶対に語って欲しくないわと思う。
もう少し人の心理解する努力しようよと思いました。
細川中尉は「動物というものは死というものを嫌うし死を前にしたら逃げますねただ逃げてはいられない精神的な責任とか道義とかいうものがあったときに自分の命を捧げる」「昭和19年12月、私は中尉に進級して桜花分隊士になったとき、『絶対死ぬ』と思わされたがそれが八ヶ月後の終戦まで続いた。処刑を宣告された死刑囚がずっと死を待ち続けるような心境だった」とおっしゃってました。
細川中尉は予備学生士官なので兵学校出の士官や下士官の方達も同じ心境だという決めつけはできませんがそういう思いの人もいたのだということ。
中島中佐は慰霊祭にも一度も出なかったというし・・・それで語るか?彼等の事を。
いろんな人の手記に出てくる人ではありますが、上手く言えないんだけど、人間として重大な欠陥がある人のような気がします。
人間生きてりゃ一人や二人はこの人、人を不快にさせる天才やなっていう人間に出会う事はありますが…私にとってはこの方がその一人かも。

米兵の人達も当時の気持ちなんかを正直に話されてて、本当に特攻を恐れていたのだなと。
余裕で自分達の勝利を確信していたのに、一機の戦闘機が突入してきてそれが偶然ではなく意図されたものであったと知ったときに彼等は恐怖のどん底に突き落された。
そこからは毎日が恐怖との闘い、戦闘機に待ち伏せさせてもすり抜けた特攻機が、対空砲火を撃ってもすり抜けた特攻機が・・・当時の映像を見る度に胃が痛くなりましたが弾幕の間から低空飛行でただ真っ直ぐに自分達に向かってくる戦闘機・・・怖かっただろうと思う。
戦後PTSDを発症した米兵もいたそうですが、あれだけの恐怖にさらされてたらPTSDも発症するでしょう。
それだけの恐怖を自分達に与える特攻隊員を憎んでも余りあるという感情は理解できなくもないけど証言者の一人が話し出した内容は人としてどうよというものでした。
特攻機に突入された艦の中で後日その米兵は特攻隊員の片足の膝から下を見つけたそうです、その骨でアクセサリーを作ってもらったと話していました。
成る程、go to hell って言葉はこういう時にこういう人に向かって使うのね・・・。
この人が隠しておくことができたはずの事を正直に話してくれたことを評価しないといけないのかもしれませんが聞かされた側は何とも言えない不快な気分に・・・。
戦争だったのだから罪悪感は感じないけど悲しい気持ちにはなると話してたけどここまでの事をして罪悪感を感じない時点でもう人間じゃないのではないかと思った。
人が越えてはいけない一線を越えた先が戦争という行為ならばもう何をしても罪悪感なんてないのかもしれない。

以前「TOKKO」という映画のDVDを見た時にも米兵が「自分達は生きる為に戦ってるのに彼等は死ぬ為に突っ込んでくる」と話してましたが、根本的な部分ではやっぱり理解できないんだろうなと思う。
死んで花実が咲くものかと言ってた米兵もいましたがそんなことは百も承知だしそれでもそうするしかない事もあるのよと思う。
吉田松陰の名言にもありますが「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」いうものがあの頃の日本人にはあったのだということを理解しろと言っても彼等には理解できないんだろうと思う。
アメリカみたいな大国からしたら小国小突き回して虐めたってすぐに泣いて言う事聞きよるわくらいに思ってたに違いないだろうけどどんな人間にも意地や誇りはあるのでね。
教育やお国柄もあるんだろうけど。
相変わらず小国を小突き回すのが好きみたいですけど同じ轍は踏むなよアメリカ(ちょっと上から目線で御忠告)。

当時の日本側、アメリカ側の証言を同時に知る事ができて勉強になりましたが、気になったのは日本側の下士官の方達の証言がなかったこと。
士官、佐官だけで部隊が成り立っていたわけではなくむしろ大半が下士官の方達で実際出撃したのも彼等。
証言していた士官で出撃したのは片岡良吉中尉(予備学14期?)だけですが、片岡中尉は元山空で編成された特攻隊の方なので。
下士官の方達の中には出撃して未帰還の方もたくさんいたけれど帰還した方達もいるのでその方達に聞いた方がもっと心情や核心に触れることができたのではないかと思わないではなかったけど、今から23年前だとまだ口が重かったりしたんだろうか?
戦友会で話し合って士官の方達が代表でということだったのでしょうか。
番組上時間の都合もあるから仕方ないのかもしれませんが。

桜花を考案した大田正一少尉の息子さんも最後に少し出ていましたが、大田少尉も戦後戸籍もなく偽名で生きていくほかなかったようです。
最期は癌を患って亡くなったそうですが、その時に初めて泣きながら息子さんに語ったそうです、「わしのせいで二十歳にも満たない若者達をたくさん死なせてしまった」と。
息子さんは「戦争だったのだから個人的な責任とかそういう捉え方はしなくていいんじゃないか」と慰めることしかできなかったそうですが、実際は子煩悩だった父の別の顔みたいなものにショックを受けて息子さん自身お父さんの死後モヤモヤしたものを抱え生きることになったようです(数年前にお父さんの過去を追うみたいなドキュメンタリーをNHKでやってました)。
加害者みたいに言う人もいるけど私はこの大田少尉もあの当時国の事を考えて考案した物がたまたま実用化されて上手い具合に軍に利用されたのだと思う。
回天を考案した黒木大尉や仁科中尉の遺族も戦後「あんたの息子があんなもの作ったからうちの息子が死ぬことになったんだ」と同じ遺族の人から言われたそうですが、大田少尉や黒木大尉、仁科中尉が考えなくても別の人が出てきてその人の国を思う気持ちを軍は利用して特攻兵器を作ったと思うのです。
上層部では特攻というものを着々と進めていて後は若者の国を思う熱意があれば完璧くらいには思っていただろうと思う、自分達が言い出しっぺになるわけにはいかないから。
元々、必死の作戦は御法度の海軍なのに若い士官が話を持ってきても「必死の作戦はダメ」と一喝すればいいだけのこと、必死に食らいついてきても上官の言う事は絶対で蹴散らしてしまえばいいのだ。
それを若い者の国を思う気持ちに絆されてと言いつつ腹の中ではよしよし上手い具合に引っ掛かったと舌をだしてるのが上層部・・・年長者って若者を教え導くものだと思ってたんですが。

林大尉の証言は去年観た映画とは違う気がしました。
亡くなる20年も前なので当然若いんだけれど時には声を詰まらせたりする姿もあって、この時点では亡くなった人達はまだ林大尉の中で林大尉と共に生きているという感じがしました。
去年映画だけを観た時には思わなかったんですが、今回見比べてみると映画の方はもう想い出語りになっちゃってたような気がします。
ドキュメンタリーでは73歳、映画では84歳くらい。
2000年頃から数年間林大尉と交流のあった方のお話だと2006年に映画の撮影が始まった時にはもう認知症を発症なさっていたとのことで自分が交流していた頃とは随分変わってしまわれていたと。
映画の中の矛盾した言葉なんかも知った今なら、そうだったのかと納得できるけれど、知らない間はその矛盾に完全に振り回されることになりました。
確かにいくつか???と思う所があったりしたのですが(集合写真で自分がどこにいるか判らないとか、手記には戦後自殺も考えたと書いてありそれについてインタビュアーが聞いたら自殺なんて考えたこともないという発言とか)。
それをあの時映画館で観ていた人はどうだったんだろうと、矛盾に疑問は感じなかったのかなとかいろいろ考えた。
私は今回映画以外のドキュメンタリーを観たり、映画以外の事から情報を得て、ああそうかとようやく腑に落ちたわという状態に落ち着きましたが、知らない人は何だかよく解らんドキュメンタリー映画だったなと思ったままなのではないかと。
映画のサブタイトルは「特攻を命じた兵士の遺言」でしたが、果たして本当に林大尉が遺したかった遺言なんだろうかなと。
以前の林大尉を知ってる人や亡くなった隊員の遺族に戸惑いと複雑な感情を残しただけだったのではないかと。
人と人との出会いにはタイミングがあるから映画の監督と林大尉の出会いはあの時で映画にするにはギリギリあの時期しかなかったんだろうけど、もう何年か前に撮影が始まってたらもっと違った作品になってたのかなと思いました。
撮ってる側が矛盾に気付かなかったというのなら、ああそうなんですねと観る側は言うしかないんですが。

林富士夫大尉が証言の中で歌っていた歌は「空だ男のゆくところ」という歌。
出撃する隊員達がよく歌った歌だそうです。
この「空だ男のゆくところ」、中根久喜中尉の遺品ノートに書いてあって自分が思いついた言葉を書いたものだとずっと思っていたのですが歌のタイトルだったと判明、タイトルだけで歌詞がなかったので。
中根中尉や大橋中尉が歌ったかもしれない歌・・・。

昭和20年4月1日から6月23日まで行われた沖縄作戦中の特攻出撃は1915機、連合軍の被害は撃沈36隻、損傷368隻、戦死5000名、負傷4800名だったそうです。
特攻の戦果は大したことはないと言う人もいますが、確かに空母を沈めなければ戦果とは言えないだろうと言うならばそうなのかもしれませんが、そうでないなら結果としては大したことはないというレベルではないと思うのですが。
何でもそうですがやらない人間ほど後になってグダグダ言うのあれ何なんでしょうね。

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講演会・京都  

今日は講演を聞きに京都まで行ってきました。
予備学生13期偵察員の方(中尉)の講演だったのですがもう何年も前から同じように講演をしてらっしゃって聞きに来てる人もほとんど顔見知りというこじんまりとしたもの(定員40名ほど)だったので何だか私にはあまり合ってなかった。
初参加は私を入れてもほんの数名だったようで。
妙に居心地が悪くて終わったら早々に引き上げました
主催者がどうもかなり右寄りの方達のようでそれもまた居心地の悪さに拍車をかけたという・・・。
世の中いろんな人がいるので主義主張もいろんな形があってそれはそれで結構なんですけどね。
でも何となく思ったのは、特攻にしてもいろんな考えや思いがあって当事者でも命令だったから仕方なくという人もあればやるからにはやり遂げてみせるという強い気持ちを持ってる人もいてそんな人達が戦後少しずつ重い口を開いて話をして下さるようになった瞬間からそれを勝手に右か左か決めつけて利用しようとする人が出てきた様に思う(今回の主催者がそうというわけではない)。
私からすればいろんな考えがあるんだから嫌々であろうとそうでなかろうとそれがその人の思いであれば一向にどちらでも構わないのですが、どちらかの考えに同調しないとダメだというようなのは私には受け入れ難い、人間てそんなに単純なものではないと思うので・・・。
いろんな考えがある中でその人達に話してもらって聞きましょうというのが私には合ってるんだなと。
13期のKさんのお話は別なところで講演があればまた聞いてみたいなと思いましたけど、主催者をしっかり見極めないと私の場合は合う合わないがあると今回の事で勉強にはなりました。
ただ主催者の方が最初に特攻について話されたのですが、沖縄戦であと一週間特攻での攻撃が続いていたら米軍では沖縄から撤退するという話も出ていたそうです。
だからあと一週間特攻を続けていたら戦況も変わり講和も有利な条件で進められたのではないかと話されていたけど、歴史にもしもやたらればはないのでね、未来を生きてる私達には判ってることだけど。
でもねぇ、そんなことしてたらあと一週間でどんだけの若い命を失わせることになると思てんねんという話です

kさんは植村眞久大尉とは同期で三重海軍航空隊でも一緒だったそうで。
同じ予備学生13期でも理系は土浦海軍航空隊、文系は三重海軍航空隊海軍航空隊と別れていたそうです。
Kさんは「植村は学生結婚をしていて子供も産まれたらしいと聞いたことがあったけど、ほんまかなと思ってたら戦後子供を抱いた写真を見てほんまやったんやなと思った」と話されてました。

講演は途中から話が脱線して何か天皇制の在り方みたいな感じの話で、正直全く興味のない内容だったので途中からは、自分何しに来たんやろ?状態でした
最後の質疑応答とフリートークは興味深く聞くことができました。
海軍では航法を徹底的に学ばされたそうですが、陸軍はそうではなかったために海軍から偵察員が応援に行って陸軍の飛行機で飛ぶこともあったとおっしゃってました。
Kさんにも特攻命令が出て鹿屋に転籍になったそうですが、搭乗員割を見る度に緊張したという事です。
覚悟を決めてはいても自分の名前がないとホッとしたそうですがそれを顔に出すわけにもいかず・・・すぐ近くには名前が書き出された人もいるわけですから。
自分の名前が書き出された人は瞬時にサッと顔色が変わったそうです。
後にKさんは予科練に航法訓練教官として大井海軍航空隊に転勤になりそこで終戦を迎えたとのことです。
質疑応答の最後に質問した人が米軍と日本軍の戦闘記録を照らし合わせて調べたら映像などで残っている米軍の艦に突入する特攻機を誰が操縦していたか判るそうで(質問者の方はそういうのを調べてる方だそう)それを遺族の方に知らせていいものかどうか、Kさんの意見はどうか?と。
Kさんは「艦が攻撃されて共に沈めば艦が墓標、空戦で戦い死んだら雲が墓標と海軍に入ったときに教えられた。だから自分の気持ちとしては判ってもそっとしておいてほしい、遺族の気持ちはまた違うものかもしれないので難しいかもしれませんが。」とおっしゃられました。
参加者の中に奥さんが予備学13期で特攻戦死なさった方の姪御さんという方がいてその方は遺族の気持ちとしては知りたいと思うと話しておられました。
戦後70年以上経ってるので亡くなった方の御両親は当然もうこの世の方ではないでしょうけど、奥さんだったり御兄弟姉妹や甥姪御さんの中にはまだ御存命の方もいらっしゃる、知りたい知りたくないと意見は分かれるでしょうが、これ故人はどう思うんでしょうね。
もし自分が故人だったら・・・遺族には知って欲しくないなと思う。
確かに自分が生きている最期の姿の映像ではあるけれど、自分が大切に思う人には自分が一緒に暮らして笑ったり話したりした頃の姿だけ覚えていて欲しいと思う、自分が突入する映像を見てしまったら今後自分の事を思い出す時その映像だけが記憶に残ってしまうのだけは絶対に嫌だ。
この質問については帰る道々、帰宅してからも考えてはみるけど、やっぱり自分が故人だったら嫌。
遺族だったら・・・心は揺れるだろうけど知りたくない方かも。
昔には知る事が出来なかったことも今なら知る事ができる、でも知らない方がいいこともあるような気がする。
調べる事は悪い事ではないけれどそれを知らせ知ってしまったことで残して行った方残された方双方の悲しみがもっと大きくなってしまったら故人の気持ちはこれまで以上に救われなくなるということもあるのではないだろうかと。

今日は毎年1月にあるLC大阪の為に取ってた休みだったのですが今年は2月なので今週と来週の土日は予定ガラ空き、そのおかげで今日講演に行くことができました。
ここ数年はLCイベント以外で京都に来ることもなかったので今日は少しブラブラしてみました。
祇園四条には11時前に着いて八坂神社あたりまで歩いて昼食。
年間通して体調が良いという日は皆無なので多少悪いくらいならもう動いてしまうのですがそういう時は大抵胃腸の調子も良くないので食欲もなくあまりまともに食事を摂ることもないのですが今日は胃腸の調子が良く気持ちよく食事ができそうなのが嬉しかった。
去年埼玉に旅行した時はまともに食事できないままだったのが悔しかったので

昼食は「祇園京めん」というお店で食べました、また麺類ですが
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餅そばです。
そばも御出汁も美味しかったので完食。
講演まで時間があったのでバスで清水道まで。
そこから調べてあった店を探したのですが、スマホの地図を見ても解らず嫌になってもう適当に八坂の塔あたりまで歩いてブラブラ、二年坂や三年坂を歩いてたら探していた甘味屋さんを見つけて入る。
「梅園清水店」
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きなこ白玉とみたらし団子のセット。
美味しかったけどみたらし団子が思っていたのと違って少し残念。
もちもち食感よりも柔らかい方が好きなので。
今は柔らかいとろけるようなみたらし団子ってないんだろうか。
でも久々におやつは別腹よというような食べ方が出来て幸せだった。
何を食べても美味しく感じない日常って悲しいものがあるので。
あと、生湯葉を食べてみたかったのですがさすがに続けて食べるのは無理だったので講演後にと思ってたらお店閉まってました
また次回に。

次は霊山護国神社へ。
中学生の時、神社の近くにある歴史館の方へ新選組展があったので両親と妹と行ったことがありそれ以来です。
神社は結構長い坂を上らなければならず、しんどかった。
坂の上から下までシャトルバスが運行していて、それだけまぁ長い坂という事です。
私は徒歩で登りました。
神社の下の方には高台寺もあって割と近場に名所が寄ってるんだなと、いつもは全然違う方向にしか行かないので。
中学生の時の記憶なんてほとんど残ってないし。
神社には勤王の志士のお墓や、大東亜戦争等の慰霊碑があったりします。
中岡慎太郎や坂本龍馬のお墓があるのもここです。
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「陸軍特別操縦見習士官之碑」です。
特操と略して呼ばれたそうです。
海軍の飛行予備学生と似た制度で、学鷲と呼ばれることもあったそうです。
4期生まであったそうですが1期生と2期生が特攻に動員されたそうです。
軍刀を手に立つ像の横にある椅子には開いたままの本とペンが置いてありました。
学業半ばにして戦争にという事を表しています。
この碑を観て思ったのは、宮下良平中尉の事でした。
宮下中尉は予備学13期、桜花で出撃戦死なさった方ですが発進後、陸攻で宮下中尉が座っていた席には忘れていったかの様に手帳とペンが置かれていたそうです。
陸と海の違いはあれど椅子の上の本とペンを見た時に思い出しました。
手帳とペン、御遺族の元に帰っていたらいいんですけど。
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「白鴎顕彰之碑」
海軍飛行予備学生士官の慰霊碑です。
こちらの碑は「陸軍特別操縦見習士官之碑」とは違う場所に建っています。
上の区画にある「昭和の杜」というところにあって観るには300円払わないといけません。
上の区画には坂本龍馬のお墓があったりするのでその関係で拝観料がいるのか?
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碑文です。
学徒たちが戦争の矛盾を感じつつもという文言を読んだとき、大橋進中尉が湯野川大尉に「生きるという事は難しい事ですね」と言った言葉をふと思い出しました。
神風特別攻撃隊で亡くなった士官搭乗員の85%が予備学生士官だそうです。
あと一週間特攻を続けていたらなんて言葉この碑文を読んでもまだ言えますか?と言いたい。
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昭和の杜の入り口にあった詠。

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中岡慎太郎と坂本龍馬の像。
立っているのが坂本龍馬。
私は坂本龍馬よりどちらかと言えば中岡慎太郎の方が好きです。
坂本龍馬の方が何かと華やかだけど、裏方でコツコツ努力を重ねる中岡慎太郎の方に私は魅力を感じます。
あくまでもどちらかと言えばの話で、本来は新撰組が好きなので。
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テレビや本でしか見たことなかったお墓ですが。
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もっと上の方に木戸孝允と奥さんのお墓があるそうですが観ていません。
中岡慎太郎と坂本龍馬のお墓の後ろの方に池田屋事件で亡くなった志士のお墓もあったけどあまり居心地が良くはないので引き返しました
ここから後は講演会の会場に向かいました。
「陸軍特別操縦見習士官之碑」の近くに特攻勇士の像も建立されてたんですけど撮るの忘れて帰ってきちゃったんですよね・・・馬鹿

講演会が終わった時間がもう夕方だったので、家に帰り着いたのは21時過ぎでした。
よく歩いた一日だったな。

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有難い事です。  

先日、中根中尉の御遺族のM様より御電話をいただきました。
2度目なので少しは落ち着いてお話できたと思うのですが…何かおかしなこと言わなかっただろうか・・・
ブログの感想などを話して下さいました。
8月に観に行った映画「人間爆弾「桜花」ー特攻を命じた兵士の遺言ー」の事を書いた記事も読んで下さったそうで、その事についてもいろいろお話を聞くことができました。
映画を観て私が疑問に思っていた事についても納得できる答えをいただき、遺族の側から観た感想も話していただきました。
同じ映画を観ても、立場によって感想や受け止め方も違い勉強になりました。
ドキュメンタリー作品は難しい。
それに関わった人が多い事柄ほど慎重にいろんな人へのインタビューを時間をかけて行い、作り上げないといけないものなんだなと思いました。
確かに気の遠くなるような時間がかかる作業かもしれないけど。

大橋進中尉の御遺族の方からコメントを頂いた事も自分の事の様に喜んで下さり嬉しかったです。
こういう話は父や友人に話したところで「へえ、そうなの」で終わっちゃうと思うので。
M様に頂いた「神雷部隊櫻花隊」の中には戦死者の名簿も掲載されており、そこには住所や遺族代表の方の名前も載っていたのですが(今では個人情報なので有り得ない事ですが)、大橋中尉の部分は住所は書かれておらず遺族代表はお母さんなっていました。
そこから、おばさんのモヤモヤした想像が発動。
「大橋中尉ってもしかしたら一人息子?でも桜花の隊員募集は長男、一人息子、妻子持ちは除外だったな・・・ああっでも中根中尉は長男やんか(妹さんはいらっしゃるけど)・・・男兄弟はいるのだろうか?」とかいろいろ。
遺族代表がお母さんだからって母子家庭だとは限らない、お父さんがいても戦後亡くなってる可能性はなくもないし。
70数年後に他人がよそのお母さんの心配しても仕方ないのは解ってるものの、息子を戦争で亡くしたお母さんがたった一人残され生きて行くにはあまりにも世間の人は冷たく国も酷かったので。
一人息子じゃなくても女手一つで育てた4人いた息子は長男殉職、次男、三男、四男は戦死、長女は病死と全て子を亡くし、戦後は息子の軍事恩給だけが生活の糧だったのにそれすら打ち切られて子供達の想い出の残る家も手放さざるを得なくなり最期は病で亡くなったというお母さんの話を本で読んだこともあって、男兄弟がいても兄弟で戦死してしまったらなどと考えていろいろ考えてはモヤモヤ
そんな時に大橋中尉の御遺族の方からコメントを頂いて大橋中尉にはお兄さんがいらっしゃったこと、コメントを下さった方はお兄さんのお孫さんだそうです。
お母さん一人ぼっちで残されたわけではなかったんだと・・・だからって大橋中尉を亡くしたお母さんの気持ちが救われるわけではないんだけど・・・私のモヤモヤが晴れただけで。
そんなことも話していろいろ聞いていただき、私にとっては有意義な時間でした。

M様有難うございました。


拍手お礼は続きより









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頂き物 ②  

中根中尉の御遺族のM様より頂いた物の中にもう一つ貴重な物が・・・
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「神雷部隊櫻花隊」という小冊子をDVDに保存した物です。
戦友会の「羽衣会」が昭和27年2月10日に発行した遺族や生存隊員の寄稿文が収められた冊子です。
要務士(搭乗員ではないですが事務職全般をマネジメントする仕事だそう)だった鳥居達也氏の尽力で作られた1冊。
終戦になり部隊が解散するとき隊員同士で3年後の3月21日(神雷桜花特別攻撃隊が初めて出撃した日)に靖国神社で会おうと約束したそうで、昭和23年3月21日に元隊員40名が集まり慰霊行事を行いその時に戦友会が設立され当時はまだ占領下だったために名称を「羽衣会」(後に海軍神雷部隊戦友会と改称)としたそうです。

まだ戦後7年しか経っていないせいか、遺族や元隊員の方達の心の内の声が生々しいというか・・・今みたいに想い出を書くという感じでないのが読んでて胸が締め付けられるような苦しい気持ちになることが何度もありました。
戦友たちの事を書いてらっしゃる方、当時の自分たちの心境を書いてらっしゃる方、いろんな方がいらっしゃる中で親御さんや御兄弟の方が書いてらっしゃる寄稿文が読んでて辛かったです。
畑仕事の傍ら亡くなった息子を思い出し泣くお母さんは、〝自分達には過ぎた良い子だったお前に、せめてもう少し豊かな人生を味わわせてやりたかった〟と書かれていました、あるお父さんは、〝息子が可哀想でならない世間の方は何と思って居られるか、息子は言いました「私共が死ななければこの国を救うことが出来ないから・・・」と。又君に忠、即ち親にも孝となると申して行きましたが、今となれば犬死の様に世間からは取り扱われているように思えて本当に可哀想で諦めることができません〟と、このお父さんにしたら息子を亡くしてそれだけでも充分心に堪えてるのに世間が特攻隊員についてどういうことを言ってるか耳にしてしまったから悔しいし情けない思いがこの寄稿文になったんだと思います。
戦死したから遺品が届くと連絡がきたけれどいくら待っても遺品が届くことはなかったと、それだけが残念だと書かれている遺族が数人いらっしゃったこと。
人の息子死地に追いやりながら遺品すら遺族に戻さない国って何だよ、他人からすればただの物でも家族からすれば亡くなった息子が遺した何よりも大切な品なんだぞ。
中には息子が出撃時戦友に託した遺品が、何人もの手に託されて(託された戦友も出撃で亡くなる為)届きましたという寄稿文もあって戦友同士の絆ってすごいなと思ったり。
親御さんが息子を想う気持ちに年月は関係なく、同じ年頃の人を見ては息子も生きていたら・・・と年を追うごとに悲しみは風化することなく深くなっていくものなのだなと思いました。
「親思う心に勝る親心」吉田松陰が詠んだ歌を思い出しました、でもこの頃は子が親を思う心も相当深いと思いますけど。

細川八朗中尉(予備学13期)と鳥居達也氏の書かれた寄稿文が一番心に残ったかなぁと。
細川中尉の寄稿文は多分、当時予備学生士官が胸に抱えていた思いを的確に書かれているのではないかと思う。
元々、兵学校や予科練出身の方達とは違う生き方をしていて当時の世の中がそれを許さないから軍というものの中に身を投じたけれど、その中で彼等なりの矜持を持って戦っていたということ、でもその胸中は複雑そのもので・・・。
鳥居氏の寄稿文は〝戦後、われこそ反戦主義者、平和主義者であったと言い出した人間にならばどうしてあの時戦争を防止するよう闘ってくれなかったのか、先見の明ある人達が全力で闘ってくれていたら、われらの友を始め世界の多くの若人たちは尊い命を弾と共に散らさずにすんだのではないか!!この言葉を激しく当時の上層政治家や軍人に叩きつけるものである。〟
激しい怒りと血を吐くような叫びだと思いました。
物事が済んだ後で、あのとき本当はこう思ってたんだよねぇなんて言い出す奴にロクな人間はいない。
仮にそう思っていたとしても、その時に主張せず流されてしまったのならばそれはもうないも同然の事であり、終わった後でもう何も言うなと思う。
一般市民ならまだしも、上層政治家や軍人が戦後それを言っちゃあマズイよねと。
裁かれなくても上層政治家や軍部の上層部にいた軍人にはやっぱり責任の一端はあると思う、なのに戦争が終わったとたんに自分は平和主義者だったのよはないわな。
恥を知らない人間は自分の罪と向き合うこともせず平気な顔で生きていく、その陰であの戦争で命を懸けて戦った人も戦って亡くなった人もその遺族の気持ちも報われず救われない。

湯野川大尉も寄稿文を書かれていました。
戦後6年、幾度か特攻の記録執筆を依頼されたが、到底生きて居る私達は書き得ないと思っていると書いてらっしゃいました。
まだ6年しか経ってないのにもう過去の事として世間では捉えられてるのかと、驚いてしまった。
中根久喜中尉と大橋進中尉の事も書かれていました。
〝中根中尉が「弾は煙突に機体は艦橋にと何故別々に突っ込まぬのか」と質問して来た。真の特攻を決心した搭乗員にのみ言い得る快心の鋭い反問であった。〟
上の人間が考えてるマニュアルのようなものは言うだけなら簡単やというようなお粗末さだったようなので、中根中尉の疑問は多分大方の人が思ってる疑問だったのではないかと思う。
それをはっきり言うか言わないかだけで。
大橋中尉については〝初夏の夜、富高の海辺の砂浜に寝転び無窮の星座を眺めつつ、人類の愚かさを語り合った大橋進中尉がたまらなく懐かしい。〟
この人達はこの時人類の愚かさを(戦争という愚かな行為を)理解していたのだ、若いけど。
それを人生経験も豊かなはずの年配者は何故解らなかったのだろう、若い人は人生経験は浅いけどその代わりに物事の本質を濁りのない目で見ることができるからかもしれないなと思う、人間は年を取るといろんな経験と共に欲とかそんなもので目が濁り自分にとって都合のいい物しか見えなくなっちゃうものなのかもしれない。
戦後7年、それから何十年か後に伝記の中に再び出てくる御二方、湯野川大尉の中では長い時が流れても大切な人として胸の中に残っているんだな。
上官と部下というよりも友や兄弟に近い想いを感じるのは私だけかなぁ。
兵学校出の士官と予備学生士官の確執は結構有名な話で、よその隊では兵学校出士官の予備学生士官への陰湿な暴力なんかもあってそういうのを読むたびに気分が悪くなってたのですが、神雷部隊ではそういうのはなかった?のかな。
林富士夫大尉が部下でもあり親友だったと話していた西尾光天中尉も予備学13期の方だったので、変な先入観を持たずに接すれば確執なんてものは起こらなかったのではないかと思う。
自分達兵学校出はこいつらとは違うんだというつまらない優越感を持ってる人間はどこにでもいますがこういうのって人間が狭量なんだろうなと。
威張るより相手を理解しようと考えて行動する人が本当に頭のいい人だと私は思うけど。

貴重な品を下さったM様、本当に有難うございました。







category: 大東亜戦争

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