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茨城へ行ってきました  

8月の中旬頃に中根久喜中尉の御遺族M様から中根中尉のお墓参りに誘っていただき「行きますっ!!」と即答、17日から茨城へ向かって夜行バスで出発。
いつかお墓参りできたらなとずっと思っていたのですが、中尉のお墓がある茨城県行方市は少し交通が不便なところのようでそうなるとレンタカーを借りてとなるわけですが私運転免許持ってないし・・・取りに行くかと思い始め取ったところで初心者が初めての土地でレンタカーって有り得ないしそこそこ運転に自信が持てるようになるまでとなれば何と気の長い話なんだろうかと・・・
そんな時に有り難いお話を頂いて即答してしまったのでした。

18日朝、渋滞で20分位の遅れで東京駅に到着、待ち合わせまで時間があったのでパパッと化粧直して靖国神社まで。
ここまで来て素通りというのも何か自分の気持ちがスッキリしないので。
いつもは観光客が多いのですが、この日は喪服ではないけど黒っぽい服装をした団体さんなんかが多くて(拝殿の中も)、何だろうと思ってたら秋季例大祭でした(帰宅して確認)。
遊就館も見学したかったけど今日は時間がないので参拝だけ済ませて、おみくじひいて元来た道を引き返しました。
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待ち合わせの東京駅八重洲南口に少し早めに到着。
今回、私がお供させていただくのは鹿児島からのM様、M様の従兄さん(苗字が同じM様なのでここからは名前の頭文字T様で)です。
T様の奥様が中根中尉の姪御さんになります。
T様が車を出して下さり、茨城まで。
途中のサービスエリアで昼食を摂った後、一路茨城県行方市へ。

途中、茨城空港へ。
茨城空港は旧海軍百里原基地だったところで神雷部隊が編制された場所です、一ヶ月程で神之池飛行場に移転したそうですが。桜花の搭乗員は練度の高い人ばかりが集められたそうで下士官で飛行時間1000時間前後、予備士官でも300時間以上はあったそうです。
下士官の人達はともかく予備士官の人達はあまり練度は高くなかったと思っていたのでちょっと意外な気がしました(失礼しました)。
今は自衛隊の百里基地とお隣同士で練習機が飛んでました、凄い音にビックリ

中根中尉のお墓は御実家の近くにありました。
お寺の敷地内にあるお墓だと思っていたのですが、地域の共同墓地でした。
場所を聞いたところで初めてではまずすぐに辿り着くのは難しいと思いました、特に方向音痴の私では。
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いつかお参りしたいと思っていた中根中尉のお墓。
立派なお墓です。
中根家のお墓は平成12年に再建されましたが、隣に建つ中根中尉の慰霊碑は昭和21年4月14日中尉の命日に合わせて妹の和子さんが建立されたそうです(中根家は男子は中尉御一人だったので末の妹、和子さんが家を継がれました)。
慰霊碑の側面上部には中尉の戒名と辞世の句が(辞世の句は崩した字なので読めず)、下部には碑文が彫られていました。
中根中尉に代わって中根家を継いだ和子さんの兄を想う気持ちが感じられました。
花忘れてきた事後悔・・・何でこううっかりしてるんだろう
特攻隊員に遺骨はありません、M様は遺髪か爪がお墓に納められてるのではないかとおっしゃっていました。
遺骨はなくても魂は故郷とご家族の側に戻ってきてると思います。
中尉には初めましての御挨拶と御縁を結んでいただいた御礼を言いました。


お墓参りを終えてから中尉の御実家へ。
今は和子さんの息子さん御夫妻がお家を継いで守っておられます。
御実家の御仏壇にも手を合わせる事ができて、中根中尉の事を知った頃の私には想像もできない展開・・・。
この日は中尉の甥御さん以外の家族の方は御留守でそんな時に突然お邪魔してしまったのですが快く迎えて下さいました。
甥御さんは中根中尉に似てらっしゃいましたよ、中尉が生きて年齢を重ねたらこういう感じになっていたかもと思うくらいに。
中尉は運動神経も頭も良かったそうで、本来なら農家の長男なわけだから農業をとなるわけですがお父さんは農業以外の道を進ませようと大学に行かせたのだと甥御さんは話して下さいました。
あの頃は今と違って大学まで行かせるのは親の負担も相当大きかった事と思います。
「神雷部隊記」の中で『(中根)中尉は苦労を重ねつつ彼を育ててくれた父親』という一文があり、私は子育ては父親だけがするわけじゃないからここは両親と書くべきではないのかと思ったのですが、この文は今日甥御さんが話してくれた事を指しているのではないかと思いました。
甥御さんが話して下さった事は御身内の方だけが知ってる貴重な話でした。
遺品箱が見つかった納屋も見せてもらいました、家を改築した時に移動させてそのままになっていたようで先に遺品箱が後日近くの桐箪笥の中から軍服が出てきたそうです。
刀(腰に吊るす短剣だと思います)もあったそうですがそれだけはずっと前に白鴎会(予備学生遺族会)に寄贈してしまったとのこと。錆びて鞘から抜けなくなっていたそうです。
遺品箱の中には中根中尉が御家族に遺したアルバムと子供の頃に描いた絵が納められていました。
長い間、開けられることなく眠っていた遺品箱ですが、もし興味を持った誰かが早くに開けてしまっていたら形見分けなんかで中身が散逸してしまっていたのではないかなぁとM様とT様がおっしゃってました。
甥御さんとは握手でお別れしましたが、大きくて温かい手でした。
御実家は改築されていましたが、建ってる場所はそのままなので、子供の頃の中根中尉が庭で走り回って遊んだりしたんだろうなとかいろいろ想像してしまいました。
のどかな風景は私が住んでる所とあまり変わりなく、ほっとするような場所でした。
中根中尉が育った故郷は私にとっても好きな場所になりました。
それと御実家では犬が3頭いたのですが可愛かったぁ、外に居た子は知らない私を見て一応吠えはしてるんですけどしっぽを見たらフルフル揺れてました
室内にいたのはチワワ2頭、1頭は大人しい子でしたがもう1頭はすごく積極的な子で寄ってきて撫でてと手で催促するのがもう可愛い可愛い
猫もいいけど犬もいいなと思った日でもありました。

中尉の御実家を後にして、次は筑波海軍航空隊記念館へ。
今年の6月にリニューアルしていて以前使われていた建物の隣に新しくなった記念館が建ってました。
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こちらが以前使われていた建物です。(2017年2月撮影)
今はこの建物右側に新しい記念館が建ってます。
以前の記念館は筑波海軍航空隊司令部庁舎が使われていたのですが今は見学できません。
補修工事がなされた後にまた見学できるようになるそうです。
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新しい記念館。

館長の金澤様とM様T様がお知り合いで、金澤様はこの日用があって記念館を不在にしていたのですが戻ってきて下さり 筑波海軍航空隊司令部庁舎の中を案内していただきました。
以前2階までは見学できたのですが、今回は3階も見せていただきました。
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この電灯、当時の物でスイッチ入れると今でも点くんです
「神雷部隊記」を読んで、大橋進中尉もここ筑波にいたことがあると知りました。
庁舎の中歩いた?とかきれいな桜は見ただろうかとかいろいろ思いながら見学させていただきました。

航空機の模型がたくさん飾ってある部屋も見せていただいたのですが、男性陣は結構盛り上がってましたが、私は零戦と彗星が同じに見えるというとんでもない人間なので・・・
でも唯一、紫電改だけは判る。
部屋の入口に近いところに紫電改がいっぱいで見ていたら・・・
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菅野直大尉機発見!!
それにしても精巧にできてる模型だわ・・・。
新館には大和の模型もありましたが大和ミュージアムの大和よりも精巧に作られているそうです、詳しくない私には細かいところまでよくできてるなとしか感想は言えないのですが・・・興味のある方は是非。

新展示として上映される「特攻のはじまり」という作品を見せていただいたのですが、大人にも子供にも解りやすく作られていて良い作品だと思いました。
女性が制作なさったそうで男性とは違う視点から作られていて、確かに当時は軍神と言われた彼等ですが、今の若者と何ら変わらない姿で笑って仲間とふざけあったりするそういう日常があったのだと思うと身近に感じると思うし、来館者の方々がそこから戦争や特攻の事を考えたりする取っ掛かりになってくれたらいいなと思う。
映像の中では中根中尉の遺品アルバムの写真も多く使われていました。
「命を武器とみなし、生きる選択肢を失くした若者のことを忘れないでください。」という言葉がずっと頭の中でグルグル。
見終わってから「どうでした?」と聞かれ「良かったです」と一言しか言えなかったのですが正直泣きそうでした、おばさんの涙腺には結構な攻撃力を持つ作品でした。

記念館を後にして館長さんが予約して下さったお店で夕食を。
kitchin晴人(ハレジン)というお店だったのですが、栗を使ったお料理がとても美味しかったです。
食事しながら館長さん、M様、T様が戦争史跡についての事なんかを話されてるのを聞きながら、こういう話は普段の自分の日常ではまずないので新鮮でした。
一人旅では絶対に経験できないことなので。
私が乗る電車の時間があったので話を途中で切り上げた感があって申し訳なかったです。
M様、T様とはここでお別れです。
初めてお会いしたのに友部駅まで館長さんに送っていただき有り難いやら申し訳ないやら。
館長さんには貴重な御時間を割いていただき有難うございました。
M様、T様には本当に何から何まで御世話になって楽しい時間を過ごす事ができました、有難うございました。

電車の待ち時間があったので館長さんが教えて下さったカフェでお茶でもと思ってたら、会社のお土産買ってない事に気付く。
東京駅は広いからあまり歩き回って買い物はしたくないし、友部駅のコンビニっぽい店で選んで買う事に。
とにかく人数の多い職場なので質より量で・・・ちょうどいいのがあったので購入。
父にはそぼろ納豆、前回来た時もここの店でそぼろ納豆買ったのですが美味しかったので。

22時東京駅発の夜行バスで帰路に。

20年位前ならまず初対面の人と一日一緒に過ごすなど有り得ない私、もう酷い人見知りで何年も文通していた相手とさえ会えなかったという人間で・・・
姉や妹は私とは正反対で誰とでもすぐ友人になるという人だったので、こういう自分が嫌いだったんですけど、年齢も経て多少図太さも加わったのもあるとは思うのですが、今回みたいに不安よりもワクワクが上回る出来事は今まで生きてきた中では初めてだったので、親や妹も驚いていましたがそれ以上に自分が一番驚いていたかもしれない。
初めてを経験するのに年齢は関係ないのだなと今になって恥ずかしながら気付いた次第

今回、声を掛けて下さったM様有難うございました。
御縁を結んでくれた中根中尉、有難うございました。

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靖国神社の桜みくじ。
今回ずっと欲しかった鳩が出ました、色も好きな紫
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おみくじは中吉。
特に悪い事は書いてなかったけれども、売買が良くない・・・私にとっては大きな買い物をしようかなと思ってたところだったので・・・

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17日の夕食。
大阪駅に着いた時間が結構遅かったので、あまりあれこれ悩んでる時間もないしでとんかつ屋に。
ビーフカツとヒレとんかつのセットを注文したのですが出てきてビックリ!
メニューで見た大きさよりも一回り?いや、もっと小さいかも・・・思わず笑ってしまった。
箸袋に店名書いてあったけどさすがにそのまま載せられず・・・
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category: 大東亜戦争

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今度こそは  

73年前の今日、中根久喜中尉は鹿児島の鹿屋基地から特攻出撃し戦死しました。
中根中尉だけでなく自分の人生を諦めざるを得なかったあの頃の若者たち。
サザンオールスターズの「蛍」という歌なんかに永遠に眠れなんて歌詞があったりましますが、私は永遠になんて眠らなくてもいいよと思う。
戦い疲れた魂を少し休めたら後はサッと生まれ変わって今度こそ自分のやりたかった事や夢を叶えて欲しいと思うから。

中根中尉についてはまだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、思いが強すぎると何から書けばいいのか判らなくなるというか・・・。
本を読んだりして新しい情報発見!ということもあったりしたのですが。
遺品アルバムの中の隊員達とふざけあい笑う少年のような顔と、物事を冷静に分析し上官に質問する怜悧な顔、知れば知るほど魅力的な人です。

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BBCドキュメンタリー「神風」  

平成7年4月出撃50周年の節目に当たり鹿屋市主催の特攻戦没者慰霊祭に参列した神雷部隊戦友会にイギリス国営放送BBCが同行取材をし戦後50年特集番組「カミカゼ」を制作、10月に英国内で放送されたものですが日本では未放送。
そのDVDを中根中尉の御遺族のM様が送って下さって観ることができました。
神雷部隊の関係者の方(士官、佐官)の証言や米軍兵士の証言で構成されてました。
日本側で証言してらしたのは湯野川大尉、林大尉、細川中尉、片岡中尉、中島中佐、あとは陸軍の小林公二少佐、三木忠直さん(桜花の設計者)、大田少尉(桜花の提案者)の息子さんでした。
湯野川大尉は当時も今も靖国神社が自分達にとってどういうものであるかという事を語っておられましたが、この方あまり自分の事は話されないなと思う。
兵学校同期の林大尉は積極的に正直に話されてて突然歌を歌い出したり(お上手です)するのですが全然タイプの違う二人.
三木さんは大田少尉から桜花について聞かされた時「そんな兵器は作れない」と拒否したそうですが「自分が乗って行きますから」と言われてと話されてましたが大田少尉一人乗って行けば一回こっきりで終わりなわけないじゃんと。
中島中佐が証言者の一人で出ていたのにはちょっと驚いた。
この人若い頃の写真でしか見たことなかったし、国内で放映されるドキュメンタリーに出てるのも見たことなかったのでどんな人なんだろうと思ってたけど・・・正直なところ良く言う人があまりいない理由がこのドキュメンタリーで解ったかも。
国内向けのドキュメンタリーでは出せないわこの人、当時の姿を知ってる人は相変わらずだなという印象なのかもしれないけど、そうでない遺族の方々の神経確実に逆撫でする人だわと。
御本人も海外の番組だから話を受けたのだろうけど。
他の方々の証言は生き残ったことでそれぞれ背負って生きてきたものの重さとか亡くなった人達への思いとか「自分が生きてる限り亡くなった戦友達も共に生き続けることができるから長生きしたい」というようなことを林大尉も話されてましたがそうやって生き続ける覚悟みたいなものを感じたりしたのですが、中島中佐に感じたのはこの人能天気なテンションで何喋ってんだろと。
当時の特攻隊員の心情なんて一番理解してそうにない人が心情について語っている状況・・・変。
部下もこの人には表面的なものしか見せなかったのだと思いますが、それにしても理解しなさすぎだろと思う。
自分は禅というものを少しやっていたからと話していて、そのせいか独特な死生観をお持ちの方のようで・・・。
こういう考え方は個人の技量が全てとも言える戦闘機搭乗員をやってる間はいいんだろうけれど、ある意味怖いもん知らずで。
禅だか何だか知らんけど自分の死生観押し付けて、喜び勇んで特攻に行ったなんて思われて後々私が話すのが本当の特攻隊員の姿ですなんて言われたら、あの頃自分が死んでいくことの意味、その日がくるまで生きることの意味を日々考え続けていた人の心情はどうなんの?私だったらあんたにだけは絶対に語って欲しくないわと思う。
もう少し人の心理解する努力しようよと思いました。
細川中尉は「動物というものは死というものを嫌うし死を前にしたら逃げますねただ逃げてはいられない精神的な責任とか道義とかいうものがあったときに自分の命を捧げる」「昭和19年12月、私は中尉に進級して桜花分隊士になったとき、『絶対死ぬ』と思わされたがそれが八ヶ月後の終戦まで続いた。処刑を宣告された死刑囚がずっと死を待ち続けるような心境だった」とおっしゃってました。
細川中尉は予備学生士官なので兵学校出の士官や下士官の方達も同じ心境だという決めつけはできませんがそういう思いの人もいたのだということ。
中島中佐は慰霊祭にも一度も出なかったというし・・・それで語るか?彼等の事を。
いろんな人の手記に出てくる人ではありますが、上手く言えないんだけど、人間として重大な欠陥がある人のような気がします。
人間生きてりゃ一人や二人はこの人、人を不快にさせる天才やなっていう人間に出会う事はありますが…私にとってはこの方がその一人かも。

米兵の人達も当時の気持ちなんかを正直に話されてて、本当に特攻を恐れていたのだなと。
余裕で自分達の勝利を確信していたのに、一機の戦闘機が突入してきてそれが偶然ではなく意図されたものであったと知ったときに彼等は恐怖のどん底に突き落された。
そこからは毎日が恐怖との闘い、戦闘機に待ち伏せさせてもすり抜けた特攻機が、対空砲火を撃ってもすり抜けた特攻機が・・・当時の映像を見る度に胃が痛くなりましたが弾幕の間から低空飛行でただ真っ直ぐに自分達に向かってくる戦闘機・・・怖かっただろうと思う。
戦後PTSDを発症した米兵もいたそうですが、あれだけの恐怖にさらされてたらPTSDも発症するでしょう。
それだけの恐怖を自分達に与える特攻隊員を憎んでも余りあるという感情は理解できなくもないけど証言者の一人が話し出した内容は人としてどうよというものでした。
特攻機に突入された艦の中で後日その米兵は特攻隊員の片足の膝から下を見つけたそうです、その骨でアクセサリーを作ってもらったと話していました。
成る程、go to hell って言葉はこういう時にこういう人に向かって使うのね・・・。
この人が隠しておくことができたはずの事を正直に話してくれたことを評価しないといけないのかもしれませんが聞かされた側は何とも言えない不快な気分に・・・。
戦争だったのだから罪悪感は感じないけど悲しい気持ちにはなると話してたけどここまでの事をして罪悪感を感じない時点でもう人間じゃないのではないかと思った。
人が越えてはいけない一線を越えた先が戦争という行為ならばもう何をしても罪悪感なんてないのかもしれない。

以前「TOKKO」という映画のDVDを見た時にも米兵が「自分達は生きる為に戦ってるのに彼等は死ぬ為に突っ込んでくる」と話してましたが、根本的な部分ではやっぱり理解できないんだろうなと思う。
死んで花実が咲くものかと言ってた米兵もいましたがそんなことは百も承知だしそれでもそうするしかない事もあるのよと思う。
吉田松陰の名言にもありますが「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」いうものがあの頃の日本人にはあったのだということを理解しろと言っても彼等には理解できないんだろうと思う。
アメリカみたいな大国からしたら小国小突き回して虐めたってすぐに泣いて言う事聞きよるわくらいに思ってたに違いないだろうけどどんな人間にも意地や誇りはあるのでね。
教育やお国柄もあるんだろうけど。
相変わらず小国を小突き回すのが好きみたいですけど同じ轍は踏むなよアメリカ(ちょっと上から目線で御忠告)。

当時の日本側、アメリカ側の証言を同時に知る事ができて勉強になりましたが、気になったのは日本側の下士官の方達の証言がなかったこと。
士官、佐官だけで部隊が成り立っていたわけではなくむしろ大半が下士官の方達で実際出撃したのも彼等。
証言していた士官で出撃したのは片岡良吉中尉(予備学14期?)だけですが、片岡中尉は元山空で編成された特攻隊の方なので。
下士官の方達の中には出撃して未帰還の方もたくさんいたけれど帰還した方達もいるのでその方達に聞いた方がもっと心情や核心に触れることができたのではないかと思わないではなかったけど、今から23年前だとまだ口が重かったりしたんだろうか?
戦友会で話し合って士官の方達が代表でということだったのでしょうか。
番組上時間の都合もあるから仕方ないのかもしれませんが。

桜花を考案した大田正一少尉の息子さんも最後に少し出ていましたが、大田少尉も戦後戸籍もなく偽名で生きていくほかなかったようです。
最期は癌を患って亡くなったそうですが、その時に初めて泣きながら息子さんに語ったそうです、「わしのせいで二十歳にも満たない若者達をたくさん死なせてしまった」と。
息子さんは「戦争だったのだから個人的な責任とかそういう捉え方はしなくていいんじゃないか」と慰めることしかできなかったそうですが、実際は子煩悩だった父の別の顔みたいなものにショックを受けて息子さん自身お父さんの死後モヤモヤしたものを抱え生きることになったようです(数年前にお父さんの過去を追うみたいなドキュメンタリーをNHKでやってました)。
加害者みたいに言う人もいるけど私はこの大田少尉もあの当時国の事を考えて考案した物がたまたま実用化されて上手い具合に軍に利用されたのだと思う。
回天を考案した黒木大尉や仁科中尉の遺族も戦後「あんたの息子があんなもの作ったからうちの息子が死ぬことになったんだ」と同じ遺族の人から言われたそうですが、大田少尉や黒木大尉、仁科中尉が考えなくても別の人が出てきてその人の国を思う気持ちを軍は利用して特攻兵器を作ったと思うのです。
上層部では特攻というものを着々と進めていて後は若者の国を思う熱意があれば完璧くらいには思っていただろうと思う、自分達が言い出しっぺになるわけにはいかないから。
元々、必死の作戦は御法度の海軍なのに若い士官が話を持ってきても「必死の作戦はダメ」と一喝すればいいだけのこと、必死に食らいついてきても上官の言う事は絶対で蹴散らしてしまえばいいのだ。
それを若い者の国を思う気持ちに絆されてと言いつつ腹の中ではよしよし上手い具合に引っ掛かったと舌をだしてるのが上層部・・・年長者って若者を教え導くものだと思ってたんですが。

林大尉の証言は去年観た映画とは違う気がしました。
亡くなる20年も前なので当然若いんだけれど時には声を詰まらせたりする姿もあって、この時点では亡くなった人達はまだ林大尉の中で林大尉と共に生きているという感じがしました。
去年映画だけを観た時には思わなかったんですが、今回見比べてみると映画の方はもう想い出語りになっちゃってたような気がします。
ドキュメンタリーでは73歳、映画では84歳くらい。
2000年頃から数年間林大尉と交流のあった方のお話だと2006年に映画の撮影が始まった時にはもう認知症を発症なさっていたとのことで自分が交流していた頃とは随分変わってしまわれていたと。
映画の中の矛盾した言葉なんかも知った今なら、そうだったのかと納得できるけれど、知らない間はその矛盾に完全に振り回されることになりました。
確かにいくつか???と思う所があったりしたのですが(集合写真で自分がどこにいるか判らないとか、手記には戦後自殺も考えたと書いてありそれについてインタビュアーが聞いたら自殺なんて考えたこともないという発言とか)。
それをあの時映画館で観ていた人はどうだったんだろうと、矛盾に疑問は感じなかったのかなとかいろいろ考えた。
私は今回映画以外のドキュメンタリーを観たり、映画以外の事から情報を得て、ああそうかとようやく腑に落ちたわという状態に落ち着きましたが、知らない人は何だかよく解らんドキュメンタリー映画だったなと思ったままなのではないかと。
映画のサブタイトルは「特攻を命じた兵士の遺言」でしたが、果たして本当に林大尉が遺したかった遺言なんだろうかなと。
以前の林大尉を知ってる人や亡くなった隊員の遺族に戸惑いと複雑な感情を残しただけだったのではないかと。
人と人との出会いにはタイミングがあるから映画の監督と林大尉の出会いはあの時で映画にするにはギリギリあの時期しかなかったんだろうけど、もう何年か前に撮影が始まってたらもっと違った作品になってたのかなと思いました。
撮ってる側が矛盾に気付かなかったというのなら、ああそうなんですねと観る側は言うしかないんですが。

林富士夫大尉が証言の中で歌っていた歌は「空だ男のゆくところ」という歌。
出撃する隊員達がよく歌った歌だそうです。
この「空だ男のゆくところ」、中根久喜中尉の遺品ノートに書いてあって自分が思いついた言葉を書いたものだとずっと思っていたのですが歌のタイトルだったと判明、タイトルだけで歌詞がなかったので。
中根中尉や大橋中尉が歌ったかもしれない歌・・・。

昭和20年4月1日から6月23日まで行われた沖縄作戦中の特攻出撃は1915機、連合軍の被害は撃沈36隻、損傷368隻、戦死5000名、負傷4800名だったそうです。
特攻の戦果は大したことはないと言う人もいますが、確かに空母を沈めなければ戦果とは言えないだろうと言うならばそうなのかもしれませんが、そうでないなら結果としては大したことはないというレベルではないと思うのですが。
何でもそうですがやらない人間ほど後になってグダグダ言うのあれ何なんでしょうね。

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講演会・京都  

今日は講演を聞きに京都まで行ってきました。
予備学生13期偵察員の方(中尉)の講演だったのですがもう何年も前から同じように講演をしてらっしゃって聞きに来てる人もほとんど顔見知りというこじんまりとしたもの(定員40名ほど)だったので何だか私にはあまり合ってなかった。
初参加は私を入れてもほんの数名だったようで。
妙に居心地が悪くて終わったら早々に引き上げました
主催者がどうもかなり右寄りの方達のようでそれもまた居心地の悪さに拍車をかけたという・・・。
世の中いろんな人がいるので主義主張もいろんな形があってそれはそれで結構なんですけどね。
でも何となく思ったのは、特攻にしてもいろんな考えや思いがあって当事者でも命令だったから仕方なくという人もあればやるからにはやり遂げてみせるという強い気持ちを持ってる人もいてそんな人達が戦後少しずつ重い口を開いて話をして下さるようになった瞬間からそれを勝手に右か左か決めつけて利用しようとする人が出てきた様に思う(今回の主催者がそうというわけではない)。
私からすればいろんな考えがあるんだから嫌々であろうとそうでなかろうとそれがその人の思いであれば一向にどちらでも構わないのですが、どちらかの考えに同調しないとダメだというようなのは私には受け入れ難い、人間てそんなに単純なものではないと思うので・・・。
いろんな考えがある中でその人達に話してもらって聞きましょうというのが私には合ってるんだなと。
13期のKさんのお話は別なところで講演があればまた聞いてみたいなと思いましたけど、主催者をしっかり見極めないと私の場合は合う合わないがあると今回の事で勉強にはなりました。
ただ主催者の方が最初に特攻について話されたのですが、沖縄戦であと一週間特攻での攻撃が続いていたら米軍では沖縄から撤退するという話も出ていたそうです。
だからあと一週間特攻を続けていたら戦況も変わり講和も有利な条件で進められたのではないかと話されていたけど、歴史にもしもやたらればはないのでね、未来を生きてる私達には判ってることだけど。
でもねぇ、そんなことしてたらあと一週間でどんだけの若い命を失わせることになると思てんねんという話です

kさんは植村眞久大尉とは同期で三重海軍航空隊でも一緒だったそうで。
同じ予備学生13期でも理系は土浦海軍航空隊、文系は三重海軍航空隊海軍航空隊と別れていたそうです。
Kさんは「植村は学生結婚をしていて子供も産まれたらしいと聞いたことがあったけど、ほんまかなと思ってたら戦後子供を抱いた写真を見てほんまやったんやなと思った」と話されてました。

講演は途中から話が脱線して何か天皇制の在り方みたいな感じの話で、正直全く興味のない内容だったので途中からは、自分何しに来たんやろ?状態でした
最後の質疑応答とフリートークは興味深く聞くことができました。
海軍では航法を徹底的に学ばされたそうですが、陸軍はそうではなかったために海軍から偵察員が応援に行って陸軍の飛行機で飛ぶこともあったとおっしゃってました。
Kさんにも特攻命令が出て鹿屋に転籍になったそうですが、搭乗員割を見る度に緊張したという事です。
覚悟を決めてはいても自分の名前がないとホッとしたそうですがそれを顔に出すわけにもいかず・・・すぐ近くには名前が書き出された人もいるわけですから。
自分の名前が書き出された人は瞬時にサッと顔色が変わったそうです。
後にKさんは予科練に航法訓練教官として大井海軍航空隊に転勤になりそこで終戦を迎えたとのことです。
質疑応答の最後に質問した人が米軍と日本軍の戦闘記録を照らし合わせて調べたら映像などで残っている米軍の艦に突入する特攻機を誰が操縦していたか判るそうで(質問者の方はそういうのを調べてる方だそう)それを遺族の方に知らせていいものかどうか、Kさんの意見はどうか?と。
Kさんは「艦が攻撃されて共に沈めば艦が墓標、空戦で戦い死んだら雲が墓標と海軍に入ったときに教えられた。だから自分の気持ちとしては判ってもそっとしておいてほしい、遺族の気持ちはまた違うものかもしれないので難しいかもしれませんが。」とおっしゃられました。
参加者の中に奥さんが予備学13期で特攻戦死なさった方の姪御さんという方がいてその方は遺族の気持ちとしては知りたいと思うと話しておられました。
戦後70年以上経ってるので亡くなった方の御両親は当然もうこの世の方ではないでしょうけど、奥さんだったり御兄弟姉妹や甥姪御さんの中にはまだ御存命の方もいらっしゃる、知りたい知りたくないと意見は分かれるでしょうが、これ故人はどう思うんでしょうね。
もし自分が故人だったら・・・遺族には知って欲しくないなと思う。
確かに自分が生きている最期の姿の映像ではあるけれど、自分が大切に思う人には自分が一緒に暮らして笑ったり話したりした頃の姿だけ覚えていて欲しいと思う、自分が突入する映像を見てしまったら今後自分の事を思い出す時その映像だけが記憶に残ってしまうのだけは絶対に嫌だ。
この質問については帰る道々、帰宅してからも考えてはみるけど、やっぱり自分が故人だったら嫌。
遺族だったら・・・心は揺れるだろうけど知りたくない方かも。
昔には知る事が出来なかったことも今なら知る事ができる、でも知らない方がいいこともあるような気がする。
調べる事は悪い事ではないけれどそれを知らせ知ってしまったことで残して行った方残された方双方の悲しみがもっと大きくなってしまったら故人の気持ちはこれまで以上に救われなくなるということもあるのではないだろうかと。

今日は毎年1月にあるLC大阪の為に取ってた休みだったのですが今年は2月なので今週と来週の土日は予定ガラ空き、そのおかげで今日講演に行くことができました。
ここ数年はLCイベント以外で京都に来ることもなかったので今日は少しブラブラしてみました。
祇園四条には11時前に着いて八坂神社あたりまで歩いて昼食。
年間通して体調が良いという日は皆無なので多少悪いくらいならもう動いてしまうのですがそういう時は大抵胃腸の調子も良くないので食欲もなくあまりまともに食事を摂ることもないのですが今日は胃腸の調子が良く気持ちよく食事ができそうなのが嬉しかった。
去年埼玉に旅行した時はまともに食事できないままだったのが悔しかったので

昼食は「祇園京めん」というお店で食べました、また麺類ですが
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餅そばです。
そばも御出汁も美味しかったので完食。
講演まで時間があったのでバスで清水道まで。
そこから調べてあった店を探したのですが、スマホの地図を見ても解らず嫌になってもう適当に八坂の塔あたりまで歩いてブラブラ、二年坂や三年坂を歩いてたら探していた甘味屋さんを見つけて入る。
「梅園清水店」
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きなこ白玉とみたらし団子のセット。
美味しかったけどみたらし団子が思っていたのと違って少し残念。
もちもち食感よりも柔らかい方が好きなので。
今は柔らかいとろけるようなみたらし団子ってないんだろうか。
でも久々におやつは別腹よというような食べ方が出来て幸せだった。
何を食べても美味しく感じない日常って悲しいものがあるので。
あと、生湯葉を食べてみたかったのですがさすがに続けて食べるのは無理だったので講演後にと思ってたらお店閉まってました
また次回に。

次は霊山護国神社へ。
中学生の時、神社の近くにある歴史館の方へ新選組展があったので両親と妹と行ったことがありそれ以来です。
神社は結構長い坂を上らなければならず、しんどかった。
坂の上から下までシャトルバスが運行していて、それだけまぁ長い坂という事です。
私は徒歩で登りました。
神社の下の方には高台寺もあって割と近場に名所が寄ってるんだなと、いつもは全然違う方向にしか行かないので。
中学生の時の記憶なんてほとんど残ってないし。
神社には勤王の志士のお墓や、大東亜戦争等の慰霊碑があったりします。
中岡慎太郎や坂本龍馬のお墓があるのもここです。
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「陸軍特別操縦見習士官之碑」です。
特操と略して呼ばれたそうです。
海軍の飛行予備学生と似た制度で、学鷲と呼ばれることもあったそうです。
4期生まであったそうですが1期生と2期生が特攻に動員されたそうです。
軍刀を手に立つ像の横にある椅子には開いたままの本とペンが置いてありました。
学業半ばにして戦争にという事を表しています。
この碑を観て思ったのは、宮下良平中尉の事でした。
宮下中尉は予備学13期、桜花で出撃戦死なさった方ですが発進後、陸攻で宮下中尉が座っていた席には忘れていったかの様に手帳とペンが置かれていたそうです。
陸と海の違いはあれど椅子の上の本とペンを見た時に思い出しました。
手帳とペン、御遺族の元に帰っていたらいいんですけど。
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「白鴎顕彰之碑」
海軍飛行予備学生士官の慰霊碑です。
こちらの碑は「陸軍特別操縦見習士官之碑」とは違う場所に建っています。
上の区画にある「昭和の杜」というところにあって観るには300円払わないといけません。
上の区画には坂本龍馬のお墓があったりするのでその関係で拝観料がいるのか?
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碑文です。
学徒たちが戦争の矛盾を感じつつもという文言を読んだとき、大橋進中尉が湯野川大尉に「生きるという事は難しい事ですね」と言った言葉をふと思い出しました。
神風特別攻撃隊で亡くなった士官搭乗員の85%が予備学生士官だそうです。
あと一週間特攻を続けていたらなんて言葉この碑文を読んでもまだ言えますか?と言いたい。
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昭和の杜の入り口にあった詠。

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中岡慎太郎と坂本龍馬の像。
立っているのが坂本龍馬。
私は坂本龍馬よりどちらかと言えば中岡慎太郎の方が好きです。
坂本龍馬の方が何かと華やかだけど、裏方でコツコツ努力を重ねる中岡慎太郎の方に私は魅力を感じます。
あくまでもどちらかと言えばの話で、本来は新撰組が好きなので。
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テレビや本でしか見たことなかったお墓ですが。
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もっと上の方に木戸孝允と奥さんのお墓があるそうですが観ていません。
中岡慎太郎と坂本龍馬のお墓の後ろの方に池田屋事件で亡くなった志士のお墓もあったけどあまり居心地が良くはないので引き返しました
ここから後は講演会の会場に向かいました。
「陸軍特別操縦見習士官之碑」の近くに特攻勇士の像も建立されてたんですけど撮るの忘れて帰ってきちゃったんですよね・・・馬鹿

講演会が終わった時間がもう夕方だったので、家に帰り着いたのは21時過ぎでした。
よく歩いた一日だったな。

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有難い事です。  

先日、中根中尉の御遺族のM様より御電話をいただきました。
2度目なので少しは落ち着いてお話できたと思うのですが…何かおかしなこと言わなかっただろうか・・・
ブログの感想などを話して下さいました。
8月に観に行った映画「人間爆弾「桜花」ー特攻を命じた兵士の遺言ー」の事を書いた記事も読んで下さったそうで、その事についてもいろいろお話を聞くことができました。
映画を観て私が疑問に思っていた事についても納得できる答えをいただき、遺族の側から観た感想も話していただきました。
同じ映画を観ても、立場によって感想や受け止め方も違い勉強になりました。
ドキュメンタリー作品は難しい。
それに関わった人が多い事柄ほど慎重にいろんな人へのインタビューを時間をかけて行い、作り上げないといけないものなんだなと思いました。
確かに気の遠くなるような時間がかかる作業かもしれないけど。

大橋進中尉の御遺族の方からコメントを頂いた事も自分の事の様に喜んで下さり嬉しかったです。
こういう話は父や友人に話したところで「へえ、そうなの」で終わっちゃうと思うので。
M様に頂いた「神雷部隊櫻花隊」の中には戦死者の名簿も掲載されており、そこには住所や遺族代表の方の名前も載っていたのですが(今では個人情報なので有り得ない事ですが)、大橋中尉の部分は住所は書かれておらず遺族代表はお母さんなっていました。
そこから、おばさんのモヤモヤした想像が発動。
「大橋中尉ってもしかしたら一人息子?でも桜花の隊員募集は長男、一人息子、妻子持ちは除外だったな・・・ああっでも中根中尉は長男やんか(妹さんはいらっしゃるけど)・・・男兄弟はいるのだろうか?」とかいろいろ。
遺族代表がお母さんだからって母子家庭だとは限らない、お父さんがいても戦後亡くなってる可能性はなくもないし。
70数年後に他人がよそのお母さんの心配しても仕方ないのは解ってるものの、息子を戦争で亡くしたお母さんがたった一人残され生きて行くにはあまりにも世間の人は冷たく国も酷かったので。
一人息子じゃなくても女手一つで育てた4人いた息子は長男殉職、次男、三男、四男は戦死、長女は病死と全て子を亡くし、戦後は息子の軍事恩給だけが生活の糧だったのにそれすら打ち切られて子供達の想い出の残る家も手放さざるを得なくなり最期は病で亡くなったというお母さんの話を本で読んだこともあって、男兄弟がいても兄弟で戦死してしまったらなどと考えていろいろ考えてはモヤモヤ
そんな時に大橋中尉の御遺族の方からコメントを頂いて大橋中尉にはお兄さんがいらっしゃったこと、コメントを下さった方はお兄さんのお孫さんだそうです。
お母さん一人ぼっちで残されたわけではなかったんだと・・・だからって大橋中尉を亡くしたお母さんの気持ちが救われるわけではないんだけど・・・私のモヤモヤが晴れただけで。
そんなことも話していろいろ聞いていただき、私にとっては有意義な時間でした。

M様有難うございました。


拍手お礼は続きより









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