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講演会・京都  

今日は講演を聞きに京都まで行ってきました。
予備学生13期偵察員の方(中尉)の講演だったのですがもう何年も前から同じように講演をしてらっしゃって聞きに来てる人もほとんど顔見知りというこじんまりとしたもの(定員40名ほど)だったので何だか私にはあまり合ってなかった。
初参加は私を入れてもほんの数名だったようで。
妙に居心地が悪くて終わったら早々に引き上げました
主催者がどうもかなり右寄りの方達のようでそれもまた居心地の悪さに拍車をかけたという・・・。
世の中いろんな人がいるので主義主張もいろんな形があってそれはそれで結構なんですけどね。
でも何となく思ったのは、特攻にしてもいろんな考えや思いがあって当事者でも命令だったから仕方なくという人もあればやるからにはやり遂げてみせるという強い気持ちを持ってる人もいてそんな人達が戦後少しずつ重い口を開いて話をして下さるようになった瞬間からそれを勝手に右か左か決めつけて利用しようとする人が出てきた様に思う(今回の主催者がそうというわけではない)。
私からすればいろんな考えがあるんだから嫌々であろうとそうでなかろうとそれがその人の思いであれば一向にどちらでも構わないのですが、どちらかの考えに同調しないとダメだというようなのは私には受け入れ難い、人間てそんなに単純なものではないと思うので・・・。
いろんな考えがある中でその人達に話してもらって聞きましょうというのが私には合ってるんだなと。
13期のKさんのお話は別なところで講演があればまた聞いてみたいなと思いましたけど、主催者をしっかり見極めないと私の場合は合う合わないがあると今回の事で勉強にはなりました。
ただ主催者の方が最初に特攻について話されたのですが、沖縄戦であと一週間特攻での攻撃が続いていたら米軍では沖縄から撤退するという話も出ていたそうです。
だからあと一週間特攻を続けていたら戦況も変わり講和も有利な条件で進められたのではないかと話されていたけど、歴史にもしもやたらればはないのでね、未来を生きてる私達には判ってることだけど。
でもねぇ、そんなことしてたらあと一週間でどんだけの若い命を失わせることになると思てんねんという話です

kさんは植村眞久大尉とは同期で三重海軍航空隊でも一緒だったそうで。
同じ予備学生13期でも理系は土浦海軍航空隊、文系は三重海軍航空隊海軍航空隊と別れていたそうです。
Kさんは「植村は学生結婚をしていて子供も産まれたらしいと聞いたことがあったけど、ほんまかなと思ってたら戦後子供を抱いた写真を見てほんまやったんやなと思った」と話されてました。

講演は途中から話が脱線して何か天皇制の在り方みたいな感じの話で、正直全く興味のない内容だったので途中からは、自分何しに来たんやろ?状態でした
最後の質疑応答とフリートークは興味深く聞くことができました。
海軍では航法を徹底的に学ばされたそうですが、陸軍はそうではなかったために海軍から偵察員が応援に行って陸軍の飛行機で飛ぶこともあったとおっしゃってました。
Kさんにも特攻命令が出て鹿屋に転籍になったそうですが、搭乗員割を見る度に緊張したという事です。
覚悟を決めてはいても自分の名前がないとホッとしたそうですがそれを顔に出すわけにもいかず・・・すぐ近くには名前が書き出された人もいるわけですから。
自分の名前が書き出された人は瞬時にサッと顔色が変わったそうです。
後にKさんは予科練に航法訓練教官として大井海軍航空隊に転勤になりそこで終戦を迎えたとのことです。
質疑応答の最後に質問した人が米軍と日本軍の戦闘記録を照らし合わせて調べたら映像などで残っている米軍の艦に突入する特攻機を誰が操縦していたか判るそうで(質問者の方はそういうのを調べてる方だそう)それを遺族の方に知らせていいものかどうか、Kさんの意見はどうか?と。
Kさんは「艦が攻撃されて共に沈めば艦が墓標、空戦で戦い死んだら雲が墓標と海軍に入ったときに教えられた。だから自分の気持ちとしては判ってもそっとしておいてほしい、遺族の気持ちはまた違うものかもしれないので難しいかもしれませんが。」とおっしゃられました。
参加者の中に奥さんが予備学13期で特攻戦死なさった方の姪御さんという方がいてその方は遺族の気持ちとしては知りたいと思うと話しておられました。
戦後70年以上経ってるので亡くなった方の御両親は当然もうこの世の方ではないでしょうけど、奥さんだったり御兄弟姉妹や甥姪御さんの中にはまだ御存命の方もいらっしゃる、知りたい知りたくないと意見は分かれるでしょうが、これ故人はどう思うんでしょうね。
もし自分が故人だったら・・・遺族には知って欲しくないなと思う。
確かに自分が生きている最期の姿の映像ではあるけれど、自分が大切に思う人には自分が一緒に暮らして笑ったり話したりした頃の姿だけ覚えていて欲しいと思う、自分が突入する映像を見てしまったら今後自分の事を思い出す時その映像だけが記憶に残ってしまうのだけは絶対に嫌だ。
この質問については帰る道々、帰宅してからも考えてはみるけど、やっぱり自分が故人だったら嫌。
遺族だったら・・・心は揺れるだろうけど知りたくない方かも。
昔には知る事が出来なかったことも今なら知る事ができる、でも知らない方がいいこともあるような気がする。
調べる事は悪い事ではないけれどそれを知らせ知ってしまったことで残して行った方残された方双方の悲しみがもっと大きくなってしまったら故人の気持ちはこれまで以上に救われなくなるということもあるのではないだろうかと。

今日は毎年1月にあるLC大阪の為に取ってた休みだったのですが今年は2月なので今週と来週の土日は予定ガラ空き、そのおかげで今日講演に行くことができました。
ここ数年はLCイベント以外で京都に来ることもなかったので今日は少しブラブラしてみました。
祇園四条には11時前に着いて八坂神社あたりまで歩いて昼食。
年間通して体調が良いという日は皆無なので多少悪いくらいならもう動いてしまうのですがそういう時は大抵胃腸の調子も良くないので食欲もなくあまりまともに食事を摂ることもないのですが今日は胃腸の調子が良く気持ちよく食事ができそうなのが嬉しかった。
去年埼玉に旅行した時はまともに食事できないままだったのが悔しかったので

昼食は「祇園京めん」というお店で食べました、また麺類ですが
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餅そばです。
そばも御出汁も美味しかったので完食。
講演まで時間があったのでバスで清水道まで。
そこから調べてあった店を探したのですが、スマホの地図を見ても解らず嫌になってもう適当に八坂の塔あたりまで歩いてブラブラ、二年坂や三年坂を歩いてたら探していた甘味屋さんを見つけて入る。
「梅園清水店」
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きなこ白玉とみたらし団子のセット。
美味しかったけどみたらし団子が思っていたのと違って少し残念。
もちもち食感よりも柔らかい方が好きなので。
今は柔らかいとろけるようなみたらし団子ってないんだろうか。
でも久々におやつは別腹よというような食べ方が出来て幸せだった。
何を食べても美味しく感じない日常って悲しいものがあるので。
あと、生湯葉を食べてみたかったのですがさすがに続けて食べるのは無理だったので講演後にと思ってたらお店閉まってました
また次回に。

次は霊山護国神社へ。
中学生の時、神社の近くにある歴史館の方へ新選組展があったので両親と妹と行ったことがありそれ以来です。
神社は結構長い坂を上らなければならず、しんどかった。
坂の上から下までシャトルバスが運行していて、それだけまぁ長い坂という事です。
私は徒歩で登りました。
神社の下の方には高台寺もあって割と近場に名所が寄ってるんだなと、いつもは全然違う方向にしか行かないので。
中学生の時の記憶なんてほとんど残ってないし。
神社には勤王の志士のお墓や、大東亜戦争等の慰霊碑があったりします。
中岡慎太郎や坂本龍馬のお墓があるのもここです。
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「陸軍特別操縦見習士官之碑」です。
特操と略して呼ばれたそうです。
海軍の飛行予備学生と似た制度で、学鷲と呼ばれることもあったそうです。
4期生まであったそうですが1期生と2期生が特攻に動員されたそうです。
軍刀を手に立つ像の横にある椅子には開いたままの本とペンが置いてありました。
学業半ばにして戦争にという事を表しています。
この碑を観て思ったのは、宮下良平中尉の事でした。
宮下中尉は予備学13期、桜花で出撃戦死なさった方ですが発進後、陸攻で宮下中尉が座っていた席には忘れていったかの様に手帳とペンが置かれていたそうです。
陸と海の違いはあれど椅子の上の本とペンを見た時に思い出しました。
手帳とペン、御遺族の元に帰っていたらいいんですけど。
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「白鴎顕彰之碑」
海軍飛行予備学生士官の慰霊碑です。
こちらの碑は「陸軍特別操縦見習士官之碑」とは違う場所に建っています。
上の区画にある「昭和の杜」というところにあって観るには300円払わないといけません。
上の区画には坂本龍馬のお墓があったりするのでその関係で拝観料がいるのか?
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碑文です。
学徒たちが戦争の矛盾を感じつつもという文言を読んだとき、大橋進中尉が湯野川大尉に「生きるという事は難しい事ですね」と言った言葉をふと思い出しました。
神風特別攻撃隊で亡くなった士官搭乗員の85%が予備学生士官だそうです。
あと一週間特攻を続けていたらなんて言葉この碑文を読んでもまだ言えますか?と言いたい。
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昭和の杜の入り口にあった詠。

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中岡慎太郎と坂本龍馬の像。
立っているのが坂本龍馬。
私は坂本龍馬よりどちらかと言えば中岡慎太郎の方が好きです。
坂本龍馬の方が何かと華やかだけど、裏方でコツコツ努力を重ねる中岡慎太郎の方に私は魅力を感じます。
あくまでもどちらかと言えばの話で、本来は新撰組が好きなので。
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テレビや本でしか見たことなかったお墓ですが。
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もっと上の方に木戸孝允と奥さんのお墓があるそうですが観ていません。
中岡慎太郎と坂本龍馬のお墓の後ろの方に池田屋事件で亡くなった志士のお墓もあったけどあまり居心地が良くはないので引き返しました
ここから後は講演会の会場に向かいました。
「陸軍特別操縦見習士官之碑」の近くに特攻勇士の像も建立されてたんですけど撮るの忘れて帰ってきちゃったんですよね・・・馬鹿

講演会が終わった時間がもう夕方だったので、家に帰り着いたのは21時過ぎでした。
よく歩いた一日だったな。
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有難い事です。  

先日、中根中尉の御遺族のM様より御電話をいただきました。
2度目なので少しは落ち着いてお話できたと思うのですが…何かおかしなこと言わなかっただろうか・・・
ブログの感想などを話して下さいました。
8月に観に行った映画「人間爆弾「桜花」ー特攻を命じた兵士の遺言ー」の事を書いた記事も読んで下さったそうで、その事についてもいろいろお話を聞くことができました。
映画を観て私が疑問に思っていた事についても納得できる答えをいただき、遺族の側から観た感想も話していただきました。
同じ映画を観ても、立場によって感想や受け止め方も違い勉強になりました。
ドキュメンタリー作品は難しい。
それに関わった人が多い事柄ほど慎重にいろんな人へのインタビューを時間をかけて行い、作り上げないといけないものなんだなと思いました。
確かに気の遠くなるような時間がかかる作業かもしれないけど。

大橋進中尉の御遺族の方からコメントを頂いた事も自分の事の様に喜んで下さり嬉しかったです。
こういう話は父や友人に話したところで「へえ、そうなの」で終わっちゃうと思うので。
M様に頂いた「神雷部隊櫻花隊」の中には戦死者の名簿も掲載されており、そこには住所や遺族代表の方の名前も載っていたのですが(今では個人情報なので有り得ない事ですが)、大橋中尉の部分は住所は書かれておらず遺族代表はお母さんなっていました。
そこから、おばさんのモヤモヤした想像が発動。
「大橋中尉ってもしかしたら一人息子?でも桜花の隊員募集は長男、一人息子、妻子持ちは除外だったな・・・ああっでも中根中尉は長男やんか(妹さんはいらっしゃるけど)・・・男兄弟はいるのだろうか?」とかいろいろ。
遺族代表がお母さんだからって母子家庭だとは限らない、お父さんがいても戦後亡くなってる可能性はなくもないし。
70数年後に他人がよそのお母さんの心配しても仕方ないのは解ってるものの、息子を戦争で亡くしたお母さんがたった一人残され生きて行くにはあまりにも世間の人は冷たく国も酷かったので。
一人息子じゃなくても女手一つで育てた4人いた息子は長男殉職、次男、三男、四男は戦死、長女は病死と全て子を亡くし、戦後は息子の軍事恩給だけが生活の糧だったのにそれすら打ち切られて子供達の想い出の残る家も手放さざるを得なくなり最期は病で亡くなったというお母さんの話を本で読んだこともあって、男兄弟がいても兄弟で戦死してしまったらなどと考えていろいろ考えてはモヤモヤ
そんな時に大橋中尉の御遺族の方からコメントを頂いて大橋中尉にはお兄さんがいらっしゃったこと、コメントを下さった方はお兄さんのお孫さんだそうです。
お母さん一人ぼっちで残されたわけではなかったんだと・・・だからって大橋中尉を亡くしたお母さんの気持ちが救われるわけではないんだけど・・・私のモヤモヤが晴れただけで。
そんなことも話していろいろ聞いていただき、私にとっては有意義な時間でした。

M様有難うございました。


拍手お礼は続きより









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頂き物 ②  

中根中尉の御遺族のM様より頂いた物の中にもう一つ貴重な物が・・・
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「神雷部隊櫻花隊」という小冊子をDVDに保存した物です。
戦友会の「羽衣会」が昭和27年2月10日に発行した遺族や生存隊員の寄稿文が収められた冊子です。
要務士(搭乗員ではないですが事務職全般をマネジメントする仕事だそう)だった鳥居達也氏の尽力で作られた1冊。
終戦になり部隊が解散するとき隊員同士で3年後の3月21日(神雷桜花特別攻撃隊が初めて出撃した日)に靖国神社で会おうと約束したそうで、昭和23年3月21日に元隊員40名が集まり慰霊行事を行いその時に戦友会が設立され当時はまだ占領下だったために名称を「羽衣会」(後に海軍神雷部隊戦友会と改称)としたそうです。

まだ戦後7年しか経っていないせいか、遺族や元隊員の方達の心の内の声が生々しいというか・・・今みたいに想い出を書くという感じでないのが読んでて胸が締め付けられるような苦しい気持ちになることが何度もありました。
戦友たちの事を書いてらっしゃる方、当時の自分たちの心境を書いてらっしゃる方、いろんな方がいらっしゃる中で親御さんや御兄弟の方が書いてらっしゃる寄稿文が読んでて辛かったです。
畑仕事の傍ら亡くなった息子を思い出し泣くお母さんは、〝自分達には過ぎた良い子だったお前に、せめてもう少し豊かな人生を味わわせてやりたかった〟と書かれていました、あるお父さんは、〝息子が可哀想でならない世間の方は何と思って居られるか、息子は言いました「私共が死ななければこの国を救うことが出来ないから・・・」と。又君に忠、即ち親にも孝となると申して行きましたが、今となれば犬死の様に世間からは取り扱われているように思えて本当に可哀想で諦めることができません〟と、このお父さんにしたら息子を亡くしてそれだけでも充分心に堪えてるのに世間が特攻隊員についてどういうことを言ってるか耳にしてしまったから悔しいし情けない思いがこの寄稿文になったんだと思います。
戦死したから遺品が届くと連絡がきたけれどいくら待っても遺品が届くことはなかったと、それだけが残念だと書かれている遺族が数人いらっしゃったこと。
人の息子死地に追いやりながら遺品すら遺族に戻さない国って何だよ、他人からすればただの物でも家族からすれば亡くなった息子が遺した何よりも大切な品なんだぞ。
中には息子が出撃時戦友に託した遺品が、何人もの手に託されて(託された戦友も出撃で亡くなる為)届きましたという寄稿文もあって戦友同士の絆ってすごいなと思ったり。
親御さんが息子を想う気持ちに年月は関係なく、同じ年頃の人を見ては息子も生きていたら・・・と年を追うごとに悲しみは風化することなく深くなっていくものなのだなと思いました。
「親思う心に勝る親心」吉田松陰が詠んだ歌を思い出しました、でもこの頃は子が親を思う心も相当深いと思いますけど。

細川八朗中尉(予備学13期)と鳥居達也氏の書かれた寄稿文が一番心に残ったかなぁと。
細川中尉の寄稿文は多分、当時予備学生士官が胸に抱えていた思いを的確に書かれているのではないかと思う。
元々、兵学校や予科練出身の方達とは違う生き方をしていて当時の世の中がそれを許さないから軍というものの中に身を投じたけれど、その中で彼等なりの矜持を持って戦っていたということ、でもその胸中は複雑そのもので・・・。
鳥居氏の寄稿文は〝戦後、われこそ反戦主義者、平和主義者であったと言い出した人間にならばどうしてあの時戦争を防止するよう闘ってくれなかったのか、先見の明ある人達が全力で闘ってくれていたら、われらの友を始め世界の多くの若人たちは尊い命を弾と共に散らさずにすんだのではないか!!この言葉を激しく当時の上層政治家や軍人に叩きつけるものである。〟
激しい怒りと血を吐くような叫びだと思いました。
物事が済んだ後で、あのとき本当はこう思ってたんだよねぇなんて言い出す奴にロクな人間はいない。
仮にそう思っていたとしても、その時に主張せず流されてしまったのならばそれはもうないも同然の事であり、終わった後でもう何も言うなと思う。
一般市民ならまだしも、上層政治家や軍人が戦後それを言っちゃあマズイよねと。
裁かれなくても上層政治家や軍部の上層部にいた軍人にはやっぱり責任の一端はあると思う、なのに戦争が終わったとたんに自分は平和主義者だったのよはないわな。
恥を知らない人間は自分の罪と向き合うこともせず平気な顔で生きていく、その陰であの戦争で命を懸けて戦った人も戦って亡くなった人もその遺族の気持ちも報われず救われない。

湯野川大尉も寄稿文を書かれていました。
戦後6年、幾度か特攻の記録執筆を依頼されたが、到底生きて居る私達は書き得ないと思っていると書いてらっしゃいました。
まだ6年しか経ってないのにもう過去の事として世間では捉えられてるのかと、驚いてしまった。
中根久喜中尉と大橋進中尉の事も書かれていました。
〝中根中尉が「弾は煙突に機体は艦橋にと何故別々に突っ込まぬのか」と質問して来た。真の特攻を決心した搭乗員にのみ言い得る快心の鋭い反問であった。〟
上の人間が考えてるマニュアルのようなものは言うだけなら簡単やというようなお粗末さだったようなので、中根中尉の疑問は多分大方の人が思ってる疑問だったのではないかと思う。
それをはっきり言うか言わないかだけで。
大橋中尉については〝初夏の夜、富高の海辺の砂浜に寝転び無窮の星座を眺めつつ、人類の愚かさを語り合った大橋進中尉がたまらなく懐かしい。〟
この人達はこの時人類の愚かさを(戦争という愚かな行為を)理解していたのだ、若いけど。
それを人生経験も豊かなはずの年配者は何故解らなかったのだろう、若い人は人生経験は浅いけどその代わりに物事の本質を濁りのない目で見ることができるからかもしれないなと思う、人間は年を取るといろんな経験と共に欲とかそんなもので目が濁り自分にとって都合のいい物しか見えなくなっちゃうものなのかもしれない。
戦後7年、それから何十年か後に伝記の中に再び出てくる御二方、湯野川大尉の中では長い時が流れても大切な人として胸の中に残っているんだな。
上官と部下というよりも友や兄弟に近い想いを感じるのは私だけかなぁ。
兵学校出の士官と予備学生士官の確執は結構有名な話で、よその隊では兵学校出士官の予備学生士官への陰湿な暴力なんかもあってそういうのを読むたびに気分が悪くなってたのですが、神雷部隊ではそういうのはなかった?のかな。
林富士夫大尉が部下でもあり親友だったと話していた西尾光天中尉も予備学13期の方だったので、変な先入観を持たずに接すれば確執なんてものは起こらなかったのではないかと思う。
自分達兵学校出はこいつらとは違うんだというつまらない優越感を持ってる人間はどこにでもいますがこういうのって人間が狭量なんだろうなと。
威張るより相手を理解しようと考えて行動する人が本当に頭のいい人だと私は思うけど。

貴重な品を下さったM様、本当に有難うございました。







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頂き物  

中根中尉の御遺族のM様から、珍しい物と貴重な物を頂きました。

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鹿屋海軍サイダーです。
戦時中、搭乗員の方達が飲んでいたサイダーを復刻させたものだそうです。
我が家はサイダー好きで御当地サイダーを見つけたりすると買って飲んだりするので感激。
炭酸が少し強めな感じの美味しいサイダーでした。
勿論空き瓶は捨てません。

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こちらも復刻版、海軍タルト。
以前どこだったかのブログで見て美味しそうだなと思ってたので、〝おおっ、あのお菓子だ〟と。
サイダーもタルトもどうして私の欲しい物ばかり・・・M様不思議な力でも御持ちなのか・・・。
タルトと共に由来の書いた紙が同封されていたのですが、当時海軍鹿屋航空基地があった鹿児島県鹿屋市にある和菓子屋「富久屋(ふくや)」さんが、特攻隊員の為に作っていた当時「タルト」と呼ばれていたお菓子を再現したものだそうです。
当時貴重だった砂糖を使っていて、出撃前の特攻隊員に渡されていたそうです。
この世で最後に食べるお菓子・・・。
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スポンジ生地に餡子が挟んであります。
空の上でも片手で食べられるように細長く切ってパラフィン紙で包んでいた点も再現したそうです。
素朴な味の美味しいお菓子でした、今の時代には贅沢な材料を使ったケーキや和菓子が溢れていますが、あの頃の特攻隊員の方達にとってはとても贅沢な味のお菓子だったと思います。
もしかしたら中根中尉や大橋中尉(御二方共鹿屋の基地から出撃しています)も食べたのだろうか、だとしたらどんな思いでなどと考えながら食べていたら涙がぼろぼろ零れてきて、それを見た父はギョッとしてました、「このお菓子が美味しすぎるねん」と泣きながら言ういい年した娘の姿はちょっとしたホラーに違いないと今では思う、驚かせて申し訳なかったとも・・・
このお菓子はこの先もずっと作り続けてもらいたいなと思う。
タルトを食べて由来を知った人はただ美味しいなだけじゃなくきっと何かを感じ取ってくれると思うから。

その②へ。

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それは違うと思うぞ  

父が観ているドラマ「やすらぎの郷」、今日は特攻と自爆テロは同じだというセリフがあったけど違うだろと。
聞いたときは一瞬ポカンとなってしまった、その後に激しい怒りが・・・。
昼間から公共の電波使って俳優におかしなセリフ言わすなよとムカムカ。
個人の考え方に文句を言うつもりはないけど、それをドラマのセリフの中に入れたりするのが何か遣り口が姑息な感じがして嫌だ。
今この瞬間にだってあの頃、特攻隊員だった人や、特攻で大切な人を亡くした人がこのドラマを見てるかもしれない、あのセリフはそんな人達に面と向かって「特攻って自爆テロと同じですよね?ね?」と無神経に言ってる事になるんじゃないの。
脚本家って書くのが仕事だから人を喜ばせたりもできるけど、とんでもない言葉の刃で人を傷つける事もできる、今日のあのセリフこそが無差別テロじゃないのか?
今、このブログを書いてても何か腹が立って腹が立ってどうしようもない。

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