FC2ブログ

大好き

好きなもの、日常の事などいろいろと・・・

茨城へ行ってきました  

8月の中旬頃に中根久喜中尉の御遺族M様から中根中尉のお墓参りに誘っていただき「行きますっ!!」と即答、17日から茨城へ向かって夜行バスで出発。
いつかお墓参りできたらなとずっと思っていたのですが、中尉のお墓がある茨城県行方市は少し交通が不便なところのようでそうなるとレンタカーを借りてとなるわけですが私運転免許持ってないし・・・取りに行くかと思い始め取ったところで初心者が初めての土地でレンタカーって有り得ないしそこそこ運転に自信が持てるようになるまでとなれば何と気の長い話なんだろうかと・・・
そんな時に有り難いお話を頂いて即答してしまったのでした。

18日朝、渋滞で20分位の遅れで東京駅に到着、待ち合わせまで時間があったのでパパッと化粧直して靖国神社まで。
ここまで来て素通りというのも何か自分の気持ちがスッキリしないので。
いつもは観光客が多いのですが、この日は喪服ではないけど黒っぽい服装をした団体さんなんかが多くて(拝殿の中も)、何だろうと思ってたら秋季例大祭でした(帰宅して確認)。
遊就館も見学したかったけど今日は時間がないので参拝だけ済ませて、おみくじひいて元来た道を引き返しました。
IMG_20181018_094438_20181020214633.jpg


待ち合わせの東京駅八重洲南口に少し早めに到着。
今回、私がお供させていただくのは鹿児島からのM様、M様の従兄さん(苗字が同じM様なのでここからは名前の頭文字T様で)です。
T様の奥様が中根中尉の姪御さんになります。
T様が車を出して下さり、茨城まで。
途中のサービスエリアで昼食を摂った後、一路茨城県行方市へ。

途中、茨城空港へ。
茨城空港は旧海軍百里原基地だったところで神雷部隊が編制された場所です、一ヶ月程で神之池飛行場に移転したそうですが。桜花の搭乗員は練度の高い人ばかりが集められたそうで下士官で飛行時間1000時間前後、予備士官でも300時間以上はあったそうです。
下士官の人達はともかく予備士官の人達はあまり練度は高くなかったと思っていたのでちょっと意外な気がしました(失礼しました)。
今は自衛隊の百里基地とお隣同士で練習機が飛んでました、凄い音にビックリ

中根中尉のお墓は御実家の近くにありました。
お寺の敷地内にあるお墓だと思っていたのですが、地域の共同墓地でした。
場所を聞いたところで初めてではまずすぐに辿り着くのは難しいと思いました、特に方向音痴の私では。
IMG_20181018_133331_20181020214613.jpg
いつかお参りしたいと思っていた中根中尉のお墓。
立派なお墓です。
中根家のお墓は平成12年に再建されましたが、隣に建つ中根中尉の慰霊碑は昭和21年4月14日中尉の命日に合わせて妹の和子さんが建立されたそうです(中根家は男子は中尉御一人だったので末の妹、和子さんが家を継がれました)。
慰霊碑の側面上部には中尉の戒名と辞世の句が(辞世の句は崩した字なので読めず)、下部には碑文が彫られていました。
中根中尉に代わって中根家を継いだ和子さんの兄を想う気持ちが感じられました。
花忘れてきた事後悔・・・何でこううっかりしてるんだろう
特攻隊員に遺骨はありません、M様は遺髪か爪がお墓に納められてるのではないかとおっしゃっていました。
遺骨はなくても魂は故郷とご家族の側に戻ってきてると思います。
中尉には初めましての御挨拶と御縁を結んでいただいた御礼を言いました。


お墓参りを終えてから中尉の御実家へ。
今は和子さんの息子さん御夫妻がお家を継いで守っておられます。
御実家の御仏壇にも手を合わせる事ができて、中根中尉の事を知った頃の私には想像もできない展開・・・。
この日は中尉の甥御さん以外の家族の方は御留守でそんな時に突然お邪魔してしまったのですが快く迎えて下さいました。
甥御さんは中根中尉に似てらっしゃいましたよ、中尉が生きて年齢を重ねたらこういう感じになっていたかもと思うくらいに。
中尉は運動神経も頭も良かったそうで、本来なら農家の長男なわけだから農業をとなるわけですがお父さんは農業以外の道を進ませようと大学に行かせたのだと甥御さんは話して下さいました。
あの頃は今と違って大学まで行かせるのは親の負担も相当大きかった事と思います。
「神雷部隊記」の中で『(中根)中尉は苦労を重ねつつ彼を育ててくれた父親』という一文があり、私は子育ては父親だけがするわけじゃないからここは両親と書くべきではないのかと思ったのですが、この文は今日甥御さんが話してくれた事を指しているのではないかと思いました。
甥御さんが話して下さった事は御身内の方だけが知ってる貴重な話でした。
遺品箱が見つかった納屋も見せてもらいました、家を改築した時に移動させてそのままになっていたようで先に遺品箱が後日近くの桐箪笥の中から軍服が出てきたそうです。
刀(腰に吊るす短剣だと思います)もあったそうですがそれだけはずっと前に白鴎会(予備学生遺族会)に寄贈してしまったとのこと。錆びて鞘から抜けなくなっていたそうです。
遺品箱の中には中根中尉が御家族に遺したアルバムと子供の頃に描いた絵が納められていました。
長い間、開けられることなく眠っていた遺品箱ですが、もし興味を持った誰かが早くに開けてしまっていたら形見分けなんかで中身が散逸してしまっていたのではないかなぁとM様とT様がおっしゃってました。
甥御さんとは握手でお別れしましたが、大きくて温かい手でした。
御実家は改築されていましたが、建ってる場所はそのままなので、子供の頃の中根中尉が庭で走り回って遊んだりしたんだろうなとかいろいろ想像してしまいました。
のどかな風景は私が住んでる所とあまり変わりなく、ほっとするような場所でした。
中根中尉が育った故郷は私にとっても好きな場所になりました。
それと御実家では犬が3頭いたのですが可愛かったぁ、外に居た子は知らない私を見て一応吠えはしてるんですけどしっぽを見たらフルフル揺れてました
室内にいたのはチワワ2頭、1頭は大人しい子でしたがもう1頭はすごく積極的な子で寄ってきて撫でてと手で催促するのがもう可愛い可愛い
猫もいいけど犬もいいなと思った日でもありました。

中尉の御実家を後にして、次は筑波海軍航空隊記念館へ。
今年の6月にリニューアルしていて以前使われていた建物の隣に新しくなった記念館が建ってました。
DSCF9739.jpg
こちらが以前使われていた建物です。(2017年2月撮影)
今はこの建物右側に新しい記念館が建ってます。
以前の記念館は筑波海軍航空隊司令部庁舎が使われていたのですが今は見学できません。
補修工事がなされた後にまた見学できるようになるそうです。
IMG_20181018_160350_20181020214558.jpg
IMG_20181018_160418_20181105235234.jpg
新しい記念館。

館長の金澤様とM様T様がお知り合いで、金澤様はこの日用があって記念館を不在にしていたのですが戻ってきて下さり 筑波海軍航空隊司令部庁舎の中を案内していただきました。
以前2階までは見学できたのですが、今回は3階も見せていただきました。
IMG_20181018_161643_20181105235301.jpg
この電灯、当時の物でスイッチ入れると今でも点くんです
「神雷部隊記」を読んで、大橋進中尉もここ筑波にいたことがあると知りました。
庁舎の中歩いた?とかきれいな桜は見ただろうかとかいろいろ思いながら見学させていただきました。

航空機の模型がたくさん飾ってある部屋も見せていただいたのですが、男性陣は結構盛り上がってましたが、私は零戦と彗星が同じに見えるというとんでもない人間なので・・・
でも唯一、紫電改だけは判る。
部屋の入口に近いところに紫電改がいっぱいで見ていたら・・・
IMG_20181018_163044_20181020214521.jpg
菅野直大尉機発見!!
それにしても精巧にできてる模型だわ・・・。
新館には大和の模型もありましたが大和ミュージアムの大和よりも精巧に作られているそうです、詳しくない私には細かいところまでよくできてるなとしか感想は言えないのですが・・・興味のある方は是非。

新展示として上映される「特攻のはじまり」という作品を見せていただいたのですが、大人にも子供にも解りやすく作られていて良い作品だと思いました。
女性が制作なさったそうで男性とは違う視点から作られていて、確かに当時は軍神と言われた彼等ですが、今の若者と何ら変わらない姿で笑って仲間とふざけあったりするそういう日常があったのだと思うと身近に感じると思うし、来館者の方々がそこから戦争や特攻の事を考えたりする取っ掛かりになってくれたらいいなと思う。
映像の中では中根中尉の遺品アルバムの写真も多く使われていました。
「命を武器とみなし、生きる選択肢を失くした若者のことを忘れないでください。」という言葉がずっと頭の中でグルグル。
見終わってから「どうでした?」と聞かれ「良かったです」と一言しか言えなかったのですが正直泣きそうでした、おばさんの涙腺には結構な攻撃力を持つ作品でした。

記念館を後にして館長さんが予約して下さったお店で夕食を。
kitchin晴人(ハレジン)というお店だったのですが、栗を使ったお料理がとても美味しかったです。
食事しながら館長さん、M様、T様が戦争史跡についての事なんかを話されてるのを聞きながら、こういう話は普段の自分の日常ではまずないので新鮮でした。
一人旅では絶対に経験できないことなので。
私が乗る電車の時間があったので話を途中で切り上げた感があって申し訳なかったです。
M様、T様とはここでお別れです。
初めてお会いしたのに友部駅まで館長さんに送っていただき有り難いやら申し訳ないやら。
館長さんには貴重な御時間を割いていただき有難うございました。
M様、T様には本当に何から何まで御世話になって楽しい時間を過ごす事ができました、有難うございました。

電車の待ち時間があったので館長さんが教えて下さったカフェでお茶でもと思ってたら、会社のお土産買ってない事に気付く。
東京駅は広いからあまり歩き回って買い物はしたくないし、友部駅のコンビニっぽい店で選んで買う事に。
とにかく人数の多い職場なので質より量で・・・ちょうどいいのがあったので購入。
父にはそぼろ納豆、前回来た時もここの店でそぼろ納豆買ったのですが美味しかったので。

22時東京駅発の夜行バスで帰路に。

20年位前ならまず初対面の人と一日一緒に過ごすなど有り得ない私、もう酷い人見知りで何年も文通していた相手とさえ会えなかったという人間で・・・
姉や妹は私とは正反対で誰とでもすぐ友人になるという人だったので、こういう自分が嫌いだったんですけど、年齢も経て多少図太さも加わったのもあるとは思うのですが、今回みたいに不安よりもワクワクが上回る出来事は今まで生きてきた中では初めてだったので、親や妹も驚いていましたがそれ以上に自分が一番驚いていたかもしれない。
初めてを経験するのに年齢は関係ないのだなと今になって恥ずかしながら気付いた次第

今回、声を掛けて下さったM様有難うございました。
御縁を結んでくれた中根中尉、有難うございました。

IMG_20181020_212753_20181020214450_20181112005012465.jpg
靖国神社の桜みくじ。
今回ずっと欲しかった鳩が出ました、色も好きな紫
IMG_20181020_212712_20181020214455_20181112005014931.jpg
おみくじは中吉。
特に悪い事は書いてなかったけれども、売買が良くない・・・私にとっては大きな買い物をしようかなと思ってたところだったので・・・

20181017_214713100_20181112005103_LI (2)
17日の夕食。
大阪駅に着いた時間が結構遅かったので、あまりあれこれ悩んでる時間もないしでとんかつ屋に。
ビーフカツとヒレとんかつのセットを注文したのですが出てきてビックリ!
メニューで見た大きさよりも一回り?いや、もっと小さいかも・・・思わず笑ってしまった。
箸袋に店名書いてあったけどさすがにそのまま載せられず・・・
スポンサーサイト



category: 旅行

tb: 0   cm: 0

帰宅  

早朝の難波に到着。
南海電車の難波駅まで結構な距離歩きました。
平日なので徐々に通勤客が増え始め、朝ご飯を食べる気にもならず駅に到着。
急行に乗る予定でしたが通勤客で座れないんだろうなと憂鬱な気持ちになってたところ特急を発見、慌てて特急券を買って発車2分前に乗り込みました。
特急で通勤通学する人はおらず車両貸し切り状態でした。
ゆったり帰れるのでほっとしたらお腹が空いてきたので昨日東京駅で買った駅弁があったので食べる。
賞味期限少々切れてましたが。
IMG_20171120_074553_20171120193101.jpg
崎陽軒の炒飯弁当。
IMG_20171120_074821_20171120193050.jpg
普通に美味しかったです。
前回食べた炒飯シウマイ弁当が食べたかったたけど人気商品らしく売り切れでした。

最寄りの駅まで父が迎えに来てくれたので無事帰宅しました。
今回は割と急に決めた旅行日程でバス泊でしたが眠れたので特に苦にはなりませんでした。
ただ早朝着と夜遅い出発なので時間潰しが・・・特に用もないのにブラブラして時間を潰すという事ができないもので。
早朝から遅い時間までと長時間目的地に滞在できるのでホテルを取る必要がなくそういうのはいいかも。
交通費に関しては2列のバスだと新幹線と変わらない金額(座席の種類によっては新幹線より高額)になるので人によっては嫌だなと思うかもですが。
ただホテルを取らないなら新幹線で行くよりも安く行けますが。
今回はホテルで誰とも話さず自分だけの空間で過ごせる時間がなかったのが残念といえば残念ですが・・・暗いなぁと思われてもこの時間の解放感だけは一度知ってしまうと

category: 旅行

tb: 0   cm: 0

ちいさなおみせ  

越谷市から人形町に移動してちいさなおみせへ。
18時過ぎ頃人形町に到着。
3回目ともなればさすがに迷う事なくお店に着きましたが…このお店来る度に商品が少なくなってます
お客さんは割と入ってました。
メインであるリカちゃんは最初に出た日本橋リカちゃんとどう考えてもイベントで買った方がお得感があるであろうスタンダードリカちゃん本体(色髪)だけで…。
きらちゃんは1種のみでやたらたくさんありました。
他のフレンドドールは少なく売れ筋の子はほぼありませんでした。
27cmもマリーンやマリーはなく他の子の種類もなかったという。
ドレスもそんなにたくさんあるわけでもなく・・・。
頼まれものもあったのですが一つもなかったので買えず。

購入した物。
IMG_20171121_220556_20171121223643.jpg
サユリとみらいときらちゃん。
サユリとみらいはこの髪色しかなく、リトファで変えてしまおうかと思って買いました。
リトファも抽選なのでいつになるか判らないですけど
IMG_20171121_220956_20171121223637.jpg
ドレスとブーツ。
ブーツはイベントでも売ってないので黒と茶2足ずつ購入。
清算時、割引券が出たのですが使用期限が1年なのでもう次はない気がするので画像上の黒のドレスを購入して割引券使い切りました。

この状態のお店、ついでに寄って買い物位の気持ちで行かないと辛いかも・・・。
長居することもなく店を出て東京駅へ。
いつもならホテルなのですが今回は泊まらないので。
東京駅で会社へのお土産を買って、荷物が増えすぎたので駅から宅配で送りました(手荷物預かり所の奥に宅配のコーナーがある)。
泊まりだったらホテルから送れるんですけど。
東京駅から池袋へ。
夜行バスの出発時間には早いのでジュンク堂書店に行って時間潰し、大きな本屋さんはいくら居ても飽きないのですが営業時間が22時までだったので21時半頃に出てコメダ珈琲店で時間潰し。
バスの時間が22時50分だったので早めに行ってバス停の場所確認、残り時間はバス会社の待合で時間を潰しました。
帰りのバスは前から1度乗ってみたかった個室タイプの夜行バス。
早割りで購入したので定価より安く乗れました。
一番後ろの席を予約したのですがあまり乗客がいなかったので「後ろの席は少し寒いので前の席へ移れますがどうしますか?」と聞かれたのですがそのままでと。
寒くなかったのですが座席が良くなかった・・・
ベストな姿勢で眠れる座席だそうですが私には合いませんでした。
腰痛持ちなので横向きの姿勢でも眠れる座席が良いのですが、それができない座席でした、背凭れもあまり倒れなかったし、シートベルトの位置もどうも気持ち悪くて・・・。
座席さえ良ければ個室だし良かったんですけどね。
座席は行きのバスの方が良かったです。

今回は美味しい物食べようと思ってお店なんかも調べてたのに出発当日から肩凝りが酷くて体調最悪。
痛み止めを飲んでたのですがこうなると食べたいという気持ちがあまり湧いてこないので結局東京で食べた物は靖国神社で食べたうどんだけでした(笑)他は朝食べたコンビニのおにぎり。
ほぼ毎回麺類・・・。
帰りのバスで新越谷駅近くで買ったお団子2本食べました。
多分、知らなかった場所で初めての事をするのでそれで胸がいっぱいになってお腹が空かないというのもある。

行きたいところはまだまだあるけど交通の便が良くない場所だと自動車免許持ってないのでレンタカーを借りることもできないのでね。
免許取っておけば良かった。
今からでも遅くないよと言ってくれる人もいますが、私って異常なほどに慎重なので乗り物を運転するの向いてない気がする。



category: 旅行

tb: 0   cm: 0

埼玉・講演 番外編  

会場内の別のホールで「平和展」という写真などが展示されているコーナーがあったので観ました。
入ってすぐの場所に展示されていたのが、
image268.jpg
平馬康雄陸軍曹長(22歳)。
後ろにいた女性の「あ、平馬康雄さんだ」の声に地元では有名人なのか?と展示パネルを読んでみました。
昭和20年4月7日、越谷周辺にB29爆撃機約90機とP54護衛戦闘機約30機の編隊が上空に現れ、平馬曹長は五式戦を駆ってこれを迎撃、単機で敵編隊の真っ只中に突入し再三に亘り攻撃を敢行したそうですが埼玉県南埼玉郡新方村(越谷市)上空において集中砲火を浴び、愛機とともに水田に激突泥中深く埋没したとのこと。
遺体の一部や機体の一部は地元の人によって集められたそうですが、機体そのものの発掘作業は農耕馬でも身動きできなくなると云う底無しの湿田で湧き水に妨害されやむなく中断、遺体と共にそのままになってしまったそうです。
その後、地元では「B29に体当りして散った勇士」として塔婆を建てて供養が続けられ、命日には必ず線香と花が添えられたそうですが、年月の経過とともに忘れ去られようとしていましたが、肉親の切なる願いと、かつての戦友が組織する地元少飛会員の熱意が結実し、水田に埋もれていた五式戦闘機が、関係市当局と陸上自衛隊の全面的支援を得て発掘されることとなり、戦後27年が経過した昭和47年2月14日、平馬曹長のお母さんも福井県から来られ、多くの関係者が見守るなか地中から遺体と遺品が収容されたそうです。
戦死後、お母さんは平馬曹長の上官から「越谷の田に墜落戦死」と聞かされたそうですが、当時は戦死しても遺骨も遺品すら戻ってこない遺族がたくさんいることを思って「現場はどこで、遺体は、機体は?」と問いたい気持ちを抑えたそうです。
それから25年が経ち、墜落現場の詳しい場所が判って、お母さんは自費ででも発掘して息子を故郷で眠らせてやりたいと越谷市長に嘆願書を書いたそうです。
息子さんが自分の元に帰ってきてお母さんはホッとしたでしょうけれど、生きて帰ってきてくれてたらという諦めきれない想いは生涯持ち続けたのではないでしょうか。

平馬曹長は農家の六人姉弟の長男として生まれ、大空を駆ける飛行兵に憧れてはいたものの農家の長男という事もあり農林学校に進みましたが四年生になったある日親に内緒で少年航空兵学校へ受験しに行ってしまったそうです。
両親は合格したことを知って驚いたそうですが、本人の意志は固く16歳で憧れの東京陸軍航空学校へ入学しました。
熊谷陸軍飛行学校を卒業、昭和18年8月には南方で撃墜され海に落ち腕に怪我を負ったものの岸まで辿り着き命拾いをしたこともあったそうですが、後に千葉県の東部一一三部隊「桜隊」に所属、関東防衛にあたっていた最中での戦死でした。
戦闘機乗りともなれば人知れず最期を迎えるのが宿命ともいえるというようなことを本で読んだことがありますが、時間はかかりはしましたが親の元へ帰れた平馬曹長はまだ幸せだったのかもしれません。
平馬曹長が乗っていた戦闘機の一部も展示されていました。
靖国神社の遊就館にも手袋や被服の切れ端、機体の一部が展示されています。

後は、原爆投下される前の朝から始まるアニメも観ることができました。
戦時下ではあるけれどいつもと変わらない朝、それが一瞬で地獄と化す・・・こういうの観るといつも思うのですがこれを作った人達はいつかそれが自分の上に降ってくるかもしれないという事を考えたことがあるのだろうか?
馬鹿坊が指導者やってるあの国も、かつて日本に核を落としたあの国も日本からやってきた学生のスピーチに横槍入れた核保有国の人間も考えた事あるのだろうか?
こういう人達は自分の上にそれが初めて降ってきた瞬間に自分たちの罪深さに気付くのかもしれないなと思う、まぁそうなったら残念なお知らせではあるけど自分の命だけでなく自分が大切に思う人達の命までもなくなってしまうことになってしまうんだけども。
けどそれだとあまりにも愚かすぎるわなと思う、理性も知性もあるのが人間のはずなのに。

今回の講演会は遠出した甲斐がありました。

新越谷駅の中にある雑貨屋さんで仕事に使う文房具なんかを買って移動。

人形町へ








category: 旅行

tb: 0   cm: 0

埼玉・講演 ② 田中三也さん  

講演、二人目は田中三也さんです。
田中さんは大正12年石川県生まれ、昭和14年10月第5期甲種予科練習生として霞ケ浦航空隊に入隊。
17年2月に飛行練習生教程を終了、偵察員として任務に就きます。
田中さんは「彩雲の彼方へ」という本を書いてらして、私はこの本が好きで何度も読み返しています。
一時間足らずの講演だったので内容も端折りながらだったのでもう少し長い時間話を聞きたかったなぁと。
著書を読んでいたので講演の内容が解らないということも特にありませんでした。

偵察の任務も危険なもので常に命懸けです。
敵機動部隊がどこにいてどんな艦がどのくらいの数とか写真を撮ったりとやることは山ほど、それも敵地に乗り込むわけですから敵からの攻撃を避けながら素早く任務をこなさないといけない。
偵察員は偵察が仕事ですから操縦員とペアで仕事をします、時には敵戦闘機に追尾され攻撃を受けるときもありそんな時は操縦員の飛行帽に付けた紐を引っ張って機をどちらにすべらせるか指示していたそうです、この方法が田中さん独自で編み出した方法なのか海軍の偵察員全員がやっていた方法なのかは判りませんが。

田中さんも関さんと同じように歩いて400キロを移動します(関さんは200キロだからその倍ですね)。
ゲリラの襲撃にも気を付けなければならないし食糧もなくなってくるので着ている物を現地の人に食べ物と交換してもらい、自分も疲れてヨロヨロなのに弱って歩けなくなってしまった戦友を助けと散々な思いをして17日間もかけてバンバンからツゲガラオに着いたのに告げられたのは「彗星」という艦爆機で特攻してもらうから偵察員から1名出せという命令でした。
しかも先任偵察員だった田中さんにその人選をするよう押し付けられたのでした・・・共に1名も欠けることなくここまで辿り着いた仲間死にたくないのは誰だって一緒なわけで中には衰弱してる人もいる・・・田中さんは自分自身を指名しました。
遅かれ早かれ死ぬのだからと自分を指名したものの故郷の親の事、田中さんの戦死を嘆くであろう彼女の事を考えたら涙が流れたそうですが・・・米軍の空襲で「彗星」は木端微塵になってしまったのでした。
その時は「しめた」と思う気持ちと一度はやると決めた覚悟の間で何とも複雑な気持ちになったそうで・・・この時同じように出撃することになっていた零戦の一番機(住野英信中尉・予備学生13期)の後ろ(狭いけど人一人潜り込める位のスペースがあったようです)に乗せてくれと頼み操縦席にしがみついて離れず住野中尉に「一機一人でたくさんだ、命を無駄にするな」と一喝されこんこんとお説教されたそう。
それでも離れない田中さん、最後は整備員に足を掴まれ引きずり降ろされてしまったと話されてました。
この特攻については、零戦搭乗員である角田和男さんの著書「修羅の翼」にも書かれていましたが、兵学校出の士官がいたにもかかわらず、志願したのは予備学生士官である住野英信中尉・・・角田さんは兵学校出の士官にはそれぞれ部下がいて志願したら部下も共にということになるから志願を躊躇したのではないかということでしたが、本職の人間がそれをしなかったらそれこそどこで何の仕事すんの?と私なんぞは思ってしまいましたが。
予備士官でも士官である以上は下士官よりも責任のある立場ではありますが、その上である兵学校出の士官が何もしないというのはやっぱり問題ありすぎだろうと思います。
それこそ死ぬその瞬間まで迷ったり生きる事への未練を捨てきれなかったりという人の事を私は臆病だとか弱い人間だとか思ったりはしませんが、上記のような話を読んだりするとちょっとそれは言い訳にもならないのではと思ってしまう。
仕事=誇りでそれに恥じない生き方をと思う人もいれば、仕事=ステータスで美味しいところは欲しいけどそれに伴う責任を果たすのは嫌だという人もいるわけで。
人間の立派さは出身や年齢、階級ではないということを戦記は教えてくれます。
角田さんもあの事に関しては本職の軍人である自分達が征かず予備学生士官だった人を征かせてしまったことは恥ずべきことだったと書いておられましたが。
住野中尉はおとなしい目立たない人だったそうですが大言壮語するだけが男ではないのでね。
第二十六金剛隊は一番機住野英信中尉、二番機鈴村善一二飛曹、三番機氏名不明、四番機岡本高雄飛長で出撃、一番機だけが飛び立ち後は故障で不時着したりだったそうです。
住野中尉のみ突入戦死。
この特攻は基地の幹部がクラークから乗ってきた飛行機を処分したいからという理由で編成された特攻隊だそうです、そんな理由だけで・・・こいつらマジ殴ってやりてえ。

内地に戻った田中さんは343空に配属。
8月11日に不時着事故で大怪我をします。
前から順に操縦員、田中さん、電信員の順(電信員のみ後ろ向きに座っています)。
不時着の瞬間田中さんはしゃがみ込んだそうですが衝撃で左に振り回されて気が付いたら頭を床につけて逆さまになっていたそうです。
電信員は無傷、操縦員は額を切って顔面血だらけで意識を失っていたそうですが軽傷、重傷は田中さんでした(後頭部頭蓋骨陥没、右肩骨折挫傷)。
8月15日終戦、搭乗員は速やかに基地を離れるようにと言われ、殉職した戦友の遺骨を首にかけ、右手を首につり頭に包帯をしたまま軍刀を杖代わりにして歩き出し鹿屋駅に着いたものの列車は屋根にまで乗客が乗ってる状態で満身創痍の田中さんが乗って移動できるわけはなく、またトボトボと歩いて基地に戻ったそうです。
途方に暮れていたところ、要務飛行で小松基地まで飛行機を一機飛ばすという話を聞いて同乗させてもらうことができ小松基地から汽車と電車を乗り継いでやっと我が家の玄関まで辿り着いたそうです。
満身創痍、遺骨を首から下げて立っている田中さんを見て妹さんは幽霊?と思ったそうで
お祖母さんが田中さんの両足にしがみついて「こりゃ、ほんものだ」と言って家に迎え入れてくれたそうです。
終戦後10年は職を転々としたそうですが大空への夢を捨てきれず昭和30年に海上自衛隊へ鹿屋航空隊に配属、退官後は民間航空会社へ。

田中さんは真面目なだけでなく時には面白おかしく上手に話される素敵な方でした。
不時着の話をされてるときも後ろ向きに乗ってた電信員は無傷だったので、新幹線や飛行機も進行方向とは反対に座ったらもしもの時大丈夫かもとおっしゃってました
著書の中の田中さんも優秀な偵察員であるけれども無邪気で大らかさを感じさせる青年で上官や先輩から可愛がられるのが解ると思いましたが、お年を召された今も変わらない感じがしました。
それと姿勢がよくピンと背筋が伸びて立ち姿がとてもかっこいい方でした。





category: 旅行

tb: 0   cm: 0