大好き

好きなもの、日常の事などいろいろと・・・

帰宅  

早朝の難波に到着。
南海電車の難波駅まで結構な距離歩きました。
平日なので徐々に通勤客が増え始め、朝ご飯を食べる気にもならず駅に到着。
急行に乗る予定でしたが通勤客で座れないんだろうなと憂鬱な気持ちになってたところ特急を発見、慌てて特急券を買って発車2分前に乗り込みました。
特急で通勤通学する人はおらず車両貸し切り状態でした。
ゆったり帰れるのでほっとしたらお腹が空いてきたので昨日東京駅で買った駅弁があったので食べる。
賞味期限少々切れてましたが。
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崎陽軒の炒飯弁当。
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普通に美味しかったです。
前回食べた炒飯シウマイ弁当が食べたかったたけど人気商品らしく売り切れでした。

最寄りの駅まで父が迎えに来てくれたので無事帰宅しました。
今回は割と急に決めた旅行日程でバス泊でしたが眠れたので特に苦にはなりませんでした。
ただ早朝着と夜遅い出発なので時間潰しが・・・特に用もないのにブラブラして時間を潰すという事ができないもので。
早朝から遅い時間までと長時間目的地に滞在できるのでホテルを取る必要がなくそういうのはいいかも。
交通費に関しては2列のバスだと新幹線と変わらない金額(座席の種類によっては新幹線より高額)になるので人によっては嫌だなと思うかもですが。
ただホテルを取らないなら新幹線で行くよりも安く行けますが。
今回はホテルで誰とも話さず自分だけの空間で過ごせる時間がなかったのが残念といえば残念ですが・・・暗いなぁと思われてもこの時間の解放感だけは一度知ってしまうと
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ちいさなおみせ  

越谷市から人形町に移動してちいさなおみせへ。
18時過ぎ頃人形町に到着。
3回目ともなればさすがに迷う事なくお店に着きましたが…このお店来る度に商品が少なくなってます
お客さんは割と入ってました。
メインであるリカちゃんは最初に出た日本橋リカちゃんとどう考えてもイベントで買った方がお得感があるであろうスタンダードリカちゃん本体(色髪)だけで…。
きらちゃんは1種のみでやたらたくさんありました。
他のフレンドドールは少なく売れ筋の子はほぼありませんでした。
27cmもマリーンやマリーはなく他の子の種類もなかったという。
ドレスもそんなにたくさんあるわけでもなく・・・。
頼まれものもあったのですが一つもなかったので買えず。

購入した物。
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サユリとみらいときらちゃん。
サユリとみらいはこの髪色しかなく、リトファで変えてしまおうかと思って買いました。
リトファも抽選なのでいつになるか判らないですけど
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ドレスとブーツ。
ブーツはイベントでも売ってないので黒と茶2足ずつ購入。
清算時、割引券が出たのですが使用期限が1年なのでもう次はない気がするので画像上の黒のドレスを購入して割引券使い切りました。

この状態のお店、ついでに寄って買い物位の気持ちで行かないと辛いかも・・・。
長居することもなく店を出て東京駅へ。
いつもならホテルなのですが今回は泊まらないので。
東京駅で会社へのお土産を買って、荷物が増えすぎたので駅から宅配で送りました(手荷物預かり所の奥に宅配のコーナーがある)。
泊まりだったらホテルから送れるんですけど。
東京駅から池袋へ。
夜行バスの出発時間には早いのでジュンク堂書店に行って時間潰し、大きな本屋さんはいくら居ても飽きないのですが営業時間が22時までだったので21時半頃に出てコメダ珈琲店で時間潰し。
バスの時間が22時50分だったので早めに行ってバス停の場所確認、残り時間はバス会社の待合で時間を潰しました。
帰りのバスは前から1度乗ってみたかった個室タイプの夜行バス。
早割りで購入したので定価より安く乗れました。
一番後ろの席を予約したのですがあまり乗客がいなかったので「後ろの席は少し寒いので前の席へ移れますがどうしますか?」と聞かれたのですがそのままでと。
寒くなかったのですが座席が良くなかった・・・
ベストな姿勢で眠れる座席だそうですが私には合いませんでした。
腰痛持ちなので横向きの姿勢でも眠れる座席が良いのですが、それができない座席でした、背凭れもあまり倒れなかったし、シートベルトの位置もどうも気持ち悪くて・・・。
座席さえ良ければ個室だし良かったんですけどね。
座席は行きのバスの方が良かったです。

今回は美味しい物食べようと思ってお店なんかも調べてたのに出発当日から肩凝りが酷くて体調最悪。
痛み止めを飲んでたのですがこうなると食べたいという気持ちがあまり湧いてこないので結局東京で食べた物は靖国神社で食べたうどんだけでした(笑)他は朝食べたコンビニのおにぎり。
ほぼ毎回麺類・・・。
帰りのバスで新越谷駅近くで買ったお団子2本食べました。
多分、知らなかった場所で初めての事をするのでそれで胸がいっぱいになってお腹が空かないというのもある。

行きたいところはまだまだあるけど交通の便が良くない場所だと自動車免許持ってないのでレンタカーを借りることもできないのでね。
免許取っておけば良かった。
今からでも遅くないよと言ってくれる人もいますが、私って異常なほどに慎重なので乗り物を運転するの向いてない気がする。



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埼玉・講演 番外編  

会場内の別のホールで「平和展」という写真などが展示されているコーナーがあったので観ました。
入ってすぐの場所に展示されていたのが、
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平馬康雄陸軍曹長(22歳)。
後ろにいた女性の「あ、平馬康雄さんだ」の声に地元では有名人なのか?と展示パネルを読んでみました。
昭和20年4月7日、越谷周辺にB29爆撃機約90機とP54護衛戦闘機約30機の編隊が上空に現れ、平馬曹長は五式戦を駆ってこれを迎撃、単機で敵編隊の真っ只中に突入し再三に亘り攻撃を敢行したそうですが埼玉県南埼玉郡新方村(越谷市)上空において集中砲火を浴び、愛機とともに水田に激突泥中深く埋没したとのこと。
遺体の一部や機体の一部は地元の人によって集められたそうですが、機体そのものの発掘作業は農耕馬でも身動きできなくなると云う底無しの湿田で湧き水に妨害されやむなく中断、遺体と共にそのままになってしまったそうです。
その後、地元では「B29に体当りして散った勇士」として塔婆を建てて供養が続けられ、命日には必ず線香と花が添えられたそうですが、年月の経過とともに忘れ去られようとしていましたが、肉親の切なる願いと、かつての戦友が組織する地元少飛会員の熱意が結実し、水田に埋もれていた五式戦闘機が、関係市当局と陸上自衛隊の全面的支援を得て発掘されることとなり、戦後27年が経過した昭和47年2月14日、平馬曹長のお母さんも福井県から来られ、多くの関係者が見守るなか地中から遺体と遺品が収容されたそうです。
戦死後、お母さんは平馬曹長の上官から「越谷の田に墜落戦死」と聞かされたそうですが、当時は戦死しても遺骨も遺品すら戻ってこない遺族がたくさんいることを思って「現場はどこで、遺体は、機体は?」と問いたい気持ちを抑えたそうです。
それから25年が経ち、墜落現場の詳しい場所が判って、お母さんは自費ででも発掘して息子を故郷で眠らせてやりたいと越谷市長に嘆願書を書いたそうです。
息子さんが自分の元に帰ってきてお母さんはホッとしたでしょうけれど、生きて帰ってきてくれてたらという諦めきれない想いは生涯持ち続けたのではないでしょうか。

平馬曹長は農家の六人姉弟の長男として生まれ、大空を駆ける飛行兵に憧れてはいたものの農家の長男という事もあり農林学校に進みましたが四年生になったある日親に内緒で少年航空兵学校へ受験しに行ってしまったそうです。
両親は合格したことを知って驚いたそうですが、本人の意志は固く16歳で憧れの東京陸軍航空学校へ入学しました。
熊谷陸軍飛行学校を卒業、昭和18年8月には南方で撃墜され海に落ち腕に怪我を負ったものの岸まで辿り着き命拾いをしたこともあったそうですが、後に千葉県の東部一一三部隊「桜隊」に所属、関東防衛にあたっていた最中での戦死でした。
戦闘機乗りともなれば人知れず最期を迎えるのが宿命ともいえるというようなことを本で読んだことがありますが、時間はかかりはしましたが親の元へ帰れた平馬曹長はまだ幸せだったのかもしれません。
平馬曹長が乗っていた戦闘機の一部も展示されていました。
靖国神社の遊就館にも手袋や被服の切れ端、機体の一部が展示されています。

後は、原爆投下される前の朝から始まるアニメも観ることができました。
戦時下ではあるけれどいつもと変わらない朝、それが一瞬で地獄と化す・・・こういうの観るといつも思うのですがこれを作った人達はいつかそれが自分の上に降ってくるかもしれないという事を考えたことがあるのだろうか?
馬鹿坊が指導者やってるあの国も、かつて日本に核を落としたあの国も日本からやってきた学生のスピーチに横槍入れた核保有国の人間も考えた事あるのだろうか?
こういう人達は自分の上にそれが初めて降ってきた瞬間に自分たちの罪深さに気付くのかもしれないなと思う、まぁそうなったら残念なお知らせではあるけど自分の命だけでなく自分が大切に思う人達の命までもなくなってしまうことになってしまうんだけども。
けどそれだとあまりにも愚かすぎるわなと思う、理性も知性もあるのが人間のはずなのに。

今回の講演会は遠出した甲斐がありました。

新越谷駅の中にある雑貨屋さんで仕事に使う文房具なんかを買って移動。

人形町へ








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埼玉・講演 ② 田中三也さん  

講演、二人目は田中三也さんです。
田中さんは大正12年石川県生まれ、昭和14年10月第5期甲種予科練習生として霞ケ浦航空隊に入隊。
17年2月に飛行練習生教程を終了、偵察員として任務に就きます。
田中さんは「彩雲の彼方へ」という本を書いてらして、私はこの本が好きで何度も読み返しています。
一時間足らずの講演だったので内容も端折りながらだったのでもう少し長い時間話を聞きたかったなぁと。
著書を読んでいたので講演の内容が解らないということも特にありませんでした。

偵察の任務も危険なもので常に命懸けです。
敵機動部隊がどこにいてどんな艦がどのくらいの数とか写真を撮ったりとやることは山ほど、それも敵地に乗り込むわけですから敵からの攻撃を避けながら素早く任務をこなさないといけない。
偵察員は偵察が仕事ですから操縦員とペアで仕事をします、時には敵戦闘機に追尾され攻撃を受けるときもありそんな時は操縦員の飛行帽に付けた紐を引っ張って機をどちらにすべらせるか指示していたそうです、この方法が田中さん独自で編み出した方法なのか海軍の偵察員全員がやっていた方法なのかは判りませんが。

田中さんも関さんと同じように歩いて400キロを移動します(関さんは200キロだからその倍ですね)。
ゲリラの襲撃にも気を付けなければならないし食糧もなくなってくるので着ている物を現地の人に食べ物と交換してもらい、自分も疲れてヨロヨロなのに弱って歩けなくなってしまった戦友を助けと散々な思いをして17日間もかけてバンバンからツゲガラオに着いたのに告げられたのは「彗星」という艦爆機で特攻してもらうから偵察員から1名出せという命令でした。
しかも先任偵察員だった田中さんにその人選をするよう押し付けられたのでした・・・共に1名も欠けることなくここまで辿り着いた仲間死にたくないのは誰だって一緒なわけで中には衰弱してる人もいる・・・田中さんは自分自身を指名しました。
遅かれ早かれ死ぬのだからと自分を指名したものの故郷の親の事、田中さんの戦死を嘆くであろう彼女の事を考えたら涙が流れたそうですが・・・米軍の空襲で「彗星」は木端微塵になってしまったのでした。
その時は「しめた」と思う気持ちと一度はやると決めた覚悟の間で何とも複雑な気持ちになったそうで・・・この時同じように出撃することになっていた零戦の一番機(住野英信中尉・予備学生13期)の後ろ(狭いけど人一人潜り込める位のスペースがあったようです)に乗せてくれと頼み操縦席にしがみついて離れず住野中尉に「一機一人でたくさんだ、命を無駄にするな」と一喝されこんこんとお説教されたそう。
それでも離れない田中さん、最後は整備員に足を掴まれ引きずり降ろされてしまったと話されてました。
この特攻については、零戦搭乗員である角田和男さんの著書「修羅の翼」にも書かれていましたが、兵学校出の士官がいたにもかかわらず、志願したのは予備学生士官である住野英信中尉・・・角田さんは兵学校出の士官にはそれぞれ部下がいて志願したら部下も共にということになるから志願を躊躇したのではないかということでしたが、本職の人間がそれをしなかったらそれこそどこで何の仕事すんの?と私なんぞは思ってしまいましたが。
予備士官でも士官である以上は下士官よりも責任のある立場ではありますが、その上である兵学校出の士官が何もしないというのはやっぱり問題ありすぎだろうと思います。
それこそ死ぬその瞬間まで迷ったり生きる事への未練を捨てきれなかったりという人の事を私は臆病だとか弱い人間だとか思ったりはしませんが、上記のような話を読んだりするとちょっとそれは言い訳にもならないのではと思ってしまう。
仕事=誇りでそれに恥じない生き方をと思う人もいれば、仕事=ステータスで美味しいところは欲しいけどそれに伴う責任を果たすのは嫌だという人もいるわけで。
人間の立派さは出身や年齢、階級ではないということを戦記は教えてくれます。
角田さんもあの事に関しては本職の軍人である自分達が征かず予備学生士官だった人を征かせてしまったことは恥ずべきことだったと書いておられましたが。
住野中尉はおとなしい目立たない人だったそうですが大言壮語するだけが男ではないのでね。
第二十六金剛隊は一番機住野英信中尉、二番機鈴村善一二飛曹、三番機氏名不明、四番機岡本高雄飛長で出撃、一番機だけが飛び立ち後は故障で不時着したりだったそうです。
住野中尉のみ突入戦死。
この特攻は基地の幹部がクラークから乗ってきた飛行機を処分したいからという理由で編成された特攻隊だそうです、そんな理由だけで・・・こいつらマジ殴ってやりてえ。

内地に戻った田中さんは343空に配属。
8月11日に不時着事故で大怪我をします。
前から順に操縦員、田中さん、電信員の順(電信員のみ後ろ向きに座っています)。
不時着の瞬間田中さんはしゃがみ込んだそうですが衝撃で左に振り回されて気が付いたら頭を床につけて逆さまになっていたそうです。
電信員は無傷、操縦員は額を切って顔面血だらけで意識を失っていたそうですが軽傷、重傷は田中さんでした(後頭部頭蓋骨陥没、右肩骨折挫傷)。
8月15日終戦、搭乗員は速やかに基地を離れるようにと言われ、殉職した戦友の遺骨を首にかけ、右手を首につり頭に包帯をしたまま軍刀を杖代わりにして歩き出し鹿屋駅に着いたものの列車は屋根にまで乗客が乗ってる状態で満身創痍の田中さんが乗って移動できるわけはなく、またトボトボと歩いて基地に戻ったそうです。
途方に暮れていたところ、要務飛行で小松基地まで飛行機を一機飛ばすという話を聞いて同乗させてもらうことができ小松基地から汽車と電車を乗り継いでやっと我が家の玄関まで辿り着いたそうです。
満身創痍、遺骨を首から下げて立っている田中さんを見て妹さんは幽霊?と思ったそうで
お祖母さんが田中さんの両足にしがみついて「こりゃ、ほんものだ」と言って家に迎え入れてくれたそうです。
終戦後10年は職を転々としたそうですが大空への夢を捨てきれず昭和30年に海上自衛隊へ鹿屋航空隊に配属、退官後は民間航空会社へ。

田中さんは真面目なだけでなく時には面白おかしく上手に話される素敵な方でした。
不時着の話をされてるときも後ろ向きに乗ってた電信員は無傷だったので、新幹線や飛行機も進行方向とは反対に座ったらもしもの時大丈夫かもとおっしゃってました
著書の中の田中さんも優秀な偵察員であるけれども無邪気で大らかさを感じさせる青年で上官や先輩から可愛がられるのが解ると思いましたが、お年を召された今も変わらない感じがしました。
それと姿勢がよくピンと背筋が伸びて立ち姿がとてもかっこいい方でした。





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埼玉・講演 ① 関 利男さん  

靖国神社を後にして埼玉へ、靖国神社でゆっくりしすぎてちょっと焦る。
都会の電車って何でこうややこしいのか・・・解らなければ駅員さんに聞くを今回何度やったか皆さん親切でしたが。
九段下から50分足らずで新越谷に着きました。
初めての場所なのでどういうところか全然判らなかったのですがショッピングセンターなんかがあって賑やかなところでした。
13時頃着いて会場まで徒歩数分らしいので歩いてたら人が並んでるお店があってのぞいたらお団子屋さんでした。
お団子以外にもお寿司やお弁当もあって、つい並んで買ってしまった
会場にも迷わず辿り着けました、若い人がたくさんいたのでこんなにも若い人がとちょっと感動したのですが・・・違ってました、同じ会場の違う場所でゲームのイベントがあったからでした、日本は今日も平和でようございました。

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受付でもらったチラシ。
越谷市は平和事業に取り組んでいて、広島市の原爆慰霊祭にも市内の学生さんを参加させているそうです(今年は15名、毎年この人数かどうかは判りませんが)。
最初の方に学生さんの代表5名の感想文が発表され、その後に講演。
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講演者は、関利雄さんと田中三也さん、御二方共に93歳です。
田中さんの講演を聞きたくて来たのですが、陸軍の戦闘機の搭乗員(陸軍は搭乗員とは言わず空中勤務者と言うらしいのですが)の方の講演も聞けるとは遠出した甲斐がありました。
田中さんの講演は先月茨城の方でもあって本当はこちらにいくつもりで仕事の休みも調整してたのですが、どうも会場がかなり交通の便が悪いところで最寄駅からもタクシーを使うしかないようでいろいろ考えてたらもう行ける気がしなくなってきて・・・で、今日の講演なら会場も駅から近いしということで仕切りなおしてということです。
参加者も年配の方が多かったです、若い女性は数人(もちろん私は数に入れてませんよ)。

田中さんは著書を何度も読み返してるので予習できてるのですが、関さんはこの日まで存じなかったので横文字の地名などチンプンカンプン(地名、人名覚えるのが苦手なのもので)で講演でお聞きした話と帰宅後ネットで調べたりして、これはこういうことなのねと復習。

関さんは大正12年生まれで、映画「燃ゆる大空」を観て飛行機乗りに憧れて少年飛行兵の11期(海軍で言う予科練?)として大空への一歩を踏み出します。
飛行機乗りを目指す少年達は陸も海も変わりなく第一希望は戦闘機が多かったようで、関さんも当初の志望通り戦闘機過程に進む事ができて訓練を受け戦線へ。
昭和18年4月飛行第77戦隊配属、乗った戦闘機は隼だったそうです。
昭和19年1月初陣。
      2月14日にマラリアを発病して、主力戦隊のメンバーとしてニューギニアに発つことになっていましたが遅れて合流することになり居残り。
        25日に体調がまだ本調子ではなかったけれど本隊を追います・・・が、戦闘機が故障、ブル島というところに降りますがそこで本隊メンバーの少尉と関さんの同期生の2人がやはり戦闘機の故障で降りていて、修理してもらったものの3機中2機しか飛ぶことができず1機は少尉に残りの1機は関さんと同期生がジャンケンで決めることに5回ジャンケンして5回全て関さんが負けたそうでまたしても居残り、ジャンケン弱すぎと思わず笑ってしまいましたが、関さんにとってはこれが運命の分かれ道に。
先に発った2人はこの後1ヶ月以内に戦死してしまったそうです。
結局戦闘機は修理できなかったようで、連合軍が上陸してきたのでサルミというところまでジャングルを200キロ歩いて移動、病気や飢えで百名弱の中で生き残ったのは関さんともう一人のみだったそう。
以降、戦闘機もなくあちこち移動して6月初旬シンガポールへ行きますが7月飛行第77戦隊は解散と決まり、 新編成の第17錬成飛行隊に。
そこで8月初旬から特別操縦見習士官第1期生(学鷲・海軍では予備学生士官?)40名ほどの実戦機による錬成教育の教員に。
短期訓練しか受けていないため1ヶ月の訓練の間に飛行機が半減してしまう。
20機を訓練用に、20機を実戦用にしたそうですが特別操縦見習士官の人達に壊されまくり隼に複座を付けて訓練をしたそうです。
2人羽織風で足を関さん達教員がやり、操縦桿を持たせて感じを掴ませるというような方法で。
昭和20年1月 B29を初撃墜しますが、関さんの戦闘機も被弾。
      6月B24を撃墜(10人が乗っていて6人が死亡4人生存(後に処刑))。
後に特攻命令が出たそうですが出撃せず、シンガポールで玉音放送を聞いたそうです。
そこからは抑留生活も経験することになって昭和21年5月に復員なさったとのことです。

陸軍の少年飛行兵になって夢だった戦闘機の操縦士になった関さんですが一番の想い出は郷土訪問飛行だそうです。
通常は禁止されている郷土訪問飛行ですが何かの記念日でその日は各地で郷土訪問飛行が行われて(少年飛行兵への勧誘デモンストレーションの意味もあったようです)帝都での訪問飛行7名のメンバーに選ばれて飛んだとお話しされてました。

撃墜の戦果については戦後も操縦士だった自分の誇りとして講演で話したりしていたそうですが3年前に自分が撃墜したB24の遺族の方と知り合い、敵だったとはいえその人達にも家族がいてその遺族は戦後も苦しんでいることを知ったそうです。
メールでやり取りをしているそうで、遺族の方のメールには「戦死した叔父は祖国に戻ったら結婚する約束をしていた。その女性にとって叔父は理想の人であったと私は信じています」「戦争には勝者も敗者もありません。ただ全ての人に悲しみを残すだけです」と書かれていたそうです。
亡くなった方の写真も見たそうで・・・。
以前のブログでも書いた事があるのですが、当時の搭乗員の方のお話では敵機が火を吹いて墜ちても飛行機という物でしかないのに味方の飛行機だと人が墜ちるという感覚なのだそう。
その感覚は私にも解る、特攻機が米軍の高射砲に撃たれて墜ちていくのを映像で見る度人が乗ってるのにと叫びだしたくなるほどの恐怖を感じるのに、特攻機に突入される敵艦はただの艦でしかないという・・・その艦の乗組員は恐怖の形相で右往左往しているはずなのに。
多分、関さんもそういう感覚だったのではないかと・・・それが遺族と知り合って遺族から写真を見せられどんな人だったのかとか結婚の予定があったとかそんな事を知ってしまったらもう敵とはいえその人は知らない人ではなくなってしまった、その瞬間から複雑な感情が芽生えてしまったみたいな、罪悪感?。
何か気の毒な気がしました。

戦闘機の操縦士をしているときは何度も空戦に上がったそうですが敵機を見つけるまでは怖くて震えが止まらなかったそうです。
空戦を繰り返してるうちに慣れて恐怖心もなくなると言う人もいたけれど自分は最後まで怖かったと関さんがおっしゃってたことが一番心に残りました。






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